意義の振り返り

 日記をはじめるという選択にわたしを衝き動かした理由のうちのひとつに、研究とその意義というテーマで書きたいことがあった、というのがある。いまはもうそれほど書きたくもないが、当時のわたしは書かずにはいられなかった。振り返ってみればあれは若さのあらわれだったのだろうが、若さというものはつねに、あとから振り返ってはじめて理解する概念である。

 

 日記ももう終わりだから、まとめにかかっても構うまい。わたしがしようとしていたことが研究に意義があるのだという言説の否定であるということは、当時からよく分かっていた。だがそういうことを繰り返すにつれ、自分のことばがだんだんくだらなく見えてきた。だからわたしは最近、それについてあまり書かなくなった。

 

 嘘だと気づいたからではない。研究というものが持つ社会的意義の大きさに研究を通じて気づいたとか、そういう優等生的なストーリーはあいにく持ち合わせていない。ひとびとがそれぞれの領域について語る有意義な物語に感銘を受けたわけでもなければ、説得力のある物語を語る能力を手に入れたわけではない。

 

 気づいたのはむしろ逆のことだった。わたしはつまり、どこまで行ってもけっして、そのような充実した物語の一員になることはない。そう気づいたのだった。

 

 そしてその気づきがわたしにもたらしたものは落胆ではなく、むしろ安堵と呼んでもいいものであった。

 

 だからわたしは書くのをやめた。落胆の内容はいかようにも書き記して精査する価値があるが、安堵という名の現状の是認は、新しい考察をなにももたらしてくれないから。

 

 当時のわたしは恐れていた。意義というけっして理解しえないはずのものを周りのひとびとが語るのを見て、そしてそれに反発する人間の少なさを見て、わたしはいつかかれらと同じように、意義という物語に取り込まれてしまうのではないかと恐怖していた。だからこそわたしは全力で否定しなければ気が済まなかった。否定しないということは、嘘にしか見えないものを信じ込む宗教団体の一員に自分がなってしまうという未来の一部をおだやかに受容することだったからだ。

 

 すでに述べたように、それは間違いなく若さであった。若さゆえの、自信の欠如がゆえの不安だった。いまにして思えばわたしはそんな心配をする必要はなく、もっと自分自身の一貫性に自信をもってもよかった。だが当時はそこまで、鷹揚と構えておくことはできなかった。

節目の比較

 あと一週間くらいで日記は終わる。

 

 日記を終えるということについては、ここ三ヶ月ほどのあいだに数えきれない回数書いてきた。もちろんしょせん数十回だし記録も残っているから、数えようと思えば数えられるのだが、もちろん数える気はない。正直に言えば、書きすぎたとは思っている。ほかに書くこともないのだから仕方がないのだけれど。

 

 とはいえ、そのことが意味するものは存外に大きい。書きすぎたということは、まだそれだけ書くことが残っていたということでもあるのだ。こう言ってしまうと当たり前のように聞こえるが、やはり三年間毎日欠かさずに続けてきたことをやめるというのは大きな変化であって、たとえそれがすでにしっかりと固まった決意であったとしても、そしていかに個人的でくだらないことだったとしても、やはり思うところはそれなりにある。

 

 それでもわたしの身に降りかかる最大の変化はさすがに日記をやめることではあるまい、というのがすこし前に考えたことだ。この日課をやめると決断したのはわたしが就職するからであり、であれば普通に考えて、就職こそがもっとも大きな変化であるはずである。それを差し置いてなおこの一日数十分のよくわからない日課の終焉のほうが重要なできごとだと主張するのであれば、ありうる唯一の理由は、わたしが就職というものの意味するものをよく理解できていないせいで、より分かりやすい変化のほうを重大だと感じてしまっている、ということになる。

 

 きっとそうだろう、とわたしは考えた。だから書いて、就職が意味するものを言語化した。言語化によって、よりただしい理解をみずからのうちに導入しようとした。

 

 結果としてたぶん、仮説は否定された。驚くべきことに、就職とは実際にそうたいした変化ではないだろうという考えのほうが、わたしの脳内で説得力を増していった。

 

 つまり、就職のことを無視して日記を終えるということについてばかり書きつづけてきたわたしの興味の偏りは、すくなくともわたしの思考を整理する限りにおいては、べつに現実逃避と呼べるほどのものではなかった、ということになる。

 

 わたしは単にそのとき相対的に一番興味のあったことについて書いただけだった。書いているときはそうしているつもりであり、書いてしばらくしてから矛盾しているような感覚になった今回の件は、多くのものごとがそうであるように、第一感のほうが正しかった。日記をやめるとは大きな変化であり、それは世間一般には巨大な切れ目とされるものより、意外にも大きなものであった。

卒業式 ②

 思えば三年前にも、似たようなことを書いた気がする。

 

 例のウイルスが流行をはじめて一年ほどが経った時期であった。いまとそう変わらないはずの脅威にみなが怯えていたあのころ、用もないのにわざわざ大学に通っていたやつなんてだれもいなかった。用があるひとはそれでも行っていたらしいが、理論系の人間がディスカッションをしに行く、なんていうのを、あのころの世間は用事だとみなしていなかった。

 

 もっとも、すべてを世間のせいにするつもりはない。まず第一に、そうでなくとも強制されなければわざわざ大学になんて行っていなかったのだし、それにこんなことでわざわざ被害者面はしたくない。とはいえ世間の影響をわたしたちがまったく受けなかったかというとそういうわけもなく、週に合計二回のセミナーがオンラインになった結果、学生たちは互いに顔を合わせなくなった。

 

 そのことが指すものの全景を、当時のわたしが正確に予測できていたのかは分からない。どちらにせよ、のちに理解することにはなるのだからどうでもよい。とにかく卒業式の性質という観点に限った話をすれば、会わなくなったという事実はその式典を、その名前から想起するものとはまったく違うものに変えていた。

 

 変えていたのだと思う。たぶん。たぶんと言ってはぐらかすのはあくまで、そう理解していたわたしが当時のわたしがわざわざ式に行こうとしなかったせいで、正確なところは分からないからである。分からないが、たぶん変えていたのだろうと思う。

 

 似たようなことが今回も起こった。まったく予測可能なかたちで、起こるべくして起こった。

 

 卒業式といえば別れの儀式である。これまで当たり前のように存在していた関係性がその時期を境にまったく希薄になってしまうという、頭では分かっているがなかなか実感できない事実を、生徒たちの心に刻み込んで区切りをつけさせようとする会である。卒業式が実際になにかを変えることはない――本物の実感は式典ではなく、実際の新生活によってのみもたらされるものである――にしても、わたしたちはとにかくそのイベントに、別れが来たのだという理解を紐づける。卒業式にまつわるすべての行為は、そういうアイコンの構成要素である。

 

 そしてこれが別れではない場合――すなわち、関係がその後も変わらずに続くか、あるいはわたしがちょうど体験したように、すでに存在しなかった場合、ひとはこの儀式に、単に自分の身分が書類上変化するという以上のなにごとも感ずることはできないのである。

卒業式 ①

 卒業式があった。一応、行ってきた。

 

 疲れた、というのが率直な感想である。べつになにか特別な面倒事が起こったわけでもないし、気を張り詰めていたわけでもないし、だれかの話が極端に長かったわけでもないが、ただ疲れた。昨日まで旅をしていたので、単にもとから疲れていただけなのかもしれない。

 

 それはさておき。卒業式について最初に出てくる感想が疲れたかどうかだ、というのはいささかスコープのずれた話である。ずれているというのはつまり、それはどんなイベントでしたかと聞かれてイベントそのものの困難さを語るのが正解になるカテゴリーに、卒業式は含まれていないということである。現にいま一番感じているのが肉体や精神の疲労なのだから仕方がないことなのだが、それでももうすこしなにかちょっと、エモーショナルでセンチメンタルなエクスプラネーションがあるだろう、という話である。

 

 ないのだから仕方がない。

 

 大人はこれを門出だと呼ぶ。ここで言う大人というのは、卒業をしないのに卒業式に参加して、卒業生を眺めたりスピーチをしたりするひとびとのことである。わたしももうじゅうぶん大人の年齢ではあるから、卒業式というイベントが門出と呼ばれることになっているという共通理解を共有してはいる。

 

 もちろん卒業する側としては、これを未来へのスタートであるというふうに理解することはない。この式典はあくまで、卒業という事実を再確認するための儀礼的なものである。卒業生が重視しているのはもっと別の部分であって、その大部分は友人との別れを惜しむことだったり、正装をすることであったりする。だから式典とは、身に染みることのないことばを儀式的に浴びせられるという意味で、単に退屈な時間である。

 

 けれどもその空虚な退屈さのなかに意味を見出してしまうのが卒業のセンチメンタリズムであり、ああして窮屈なスーツに身を包んで手足を所在なくもぞもぞと動かしている時間にまでわたしたちは、まるでそれが失われた古代の儀式の、説明はつかないが重要ではあるらしき一部であるかのような、神聖でオカルトで無根拠な重要性を感じ取ってしまうわけである。

 

 感じ取らないのだから仕方がない。

 

 儀礼的な手続きということばはよく聞くが、この場合の儀礼とは単に、手続き的な儀礼にすぎなかった。儀礼と手続きの違いとはつまり、儀礼にはそれに紐づけられたなんらかの文化的な感情の発揚が必要になる点にあるが、今回の卒業にそれはなかった。それは今回の卒業がわたしにとって、卒業という概念に通常は一番強く紐づけられるはずのある種のことを、ほとんど意味しなかったからだろう。

自分語り語り ①

 自分語りが過ぎたようだ。日記をはじめたとき、なるべくそういうことはしないようにしようと決めていた覚えがあるのだが、耐えきれなかったようだ。

 

 そう決めたのには理由がある。すくなくとも、あったと記憶している。もうすこし正確に言えば、ことばにすらしていないせいでとっくに忘れ去っている当時の考えを、いまのわたしが納得するかたちで再現している。平たく言えば、記憶が美化されたり、前後関係を混同したり、曲解が頭の中でいつのまにか正史になったりしている可能性がある。

 

 理由、と言うのも不正確かもしれない。すくなくとも、なにかの確固たる信念に基づくものではない。それは日記をよりよい方向に向かわせるための工夫というよりは、日記というモンスターに対処するためのライフハックと言ったほうがただしく、どちらかといえば、わたしの恐怖にもとづくものである。そういう部分をむやみにあけっぴろげにするのは好きではない。好きではないが嫌いでもない。

 

 たいしたことではない。すくなくとも、こうやって長いこと前置きをして語らないといけないようなことではない。というかむしろ逆で、これほど長い前置きのあとではハードルが上がってしまい、むしろ書きにくくなる部類のことだ。綿密な計画にもとづかないものがつねにそうあるように、である。

 

 これ以上だらだらと書いても仕方がないから、もう明かしてしまおう。ダサいからだ。

 

 わたしがこんな人間である、ということは通常、声高に主張しなければならないことではない。初対面の相手には言わねばならぬこともあるだろうが、ある程度以上の関係のある相手ならそういうことは、言わずとも分かってくれるからだ。そしてここの読者としてわたしが想定している層は、たとえ存在するとして、初対面ではない。

 

 月並みな言いかたをしよう。人間の本性とはむしろ、言わずとも理解される、あるいは理解されてしまう部分のほうによくあらわれる。わたしはこんな人間ですと言って本人が提示するものが示すのは、そのひとが自分をどのように客観視する人間であるかということであって、そのひと自身ではない。

 

 そんなことだから、わたしはわたしを語るとき、わたしそのものを語れるわけではない。極端な言いかたをすれば、わたしは嘘を語ることになる。

 

 その嘘は、ダサい。現実のわたしと乖離していればいるほど、ダサくなる。どうしてダサいと思うのかはうまく説明できないが、そもそもダサいという感性に理由は必要ない。ダサいという表現はつねに、理由の説明できない不快感につけられる名前である。

宴会

 長いこと、わたしは飲み会が嫌いだった。

 

 具体的になんの回だったのかはもう忘れた。たぶんまだ大学に入る前だったはずだから、飲み会と呼ぶのは適切ではなかったかもしれない。わたしの時代はすでに未成年飲酒に厳しい時代であり、したがって店はきっと、若者向けの安かろうまずかろうの焼肉屋かなにかだった。

 

 とにかくその手のものに初めて参加し、どんなものだったかは忘れたがとにかくわたしは不快な思いをした。その不快さの責任がほんとうはだれにあったのかは、今となっては定かではない。当時のわたしを定義づけていた、中高生にありがちな原理主義的不寛容に原因があったのかもしれない。あるいはまわりの人間が悪い騒ぎかたをしていたのかもしれない。もしかすれば単純に、その店の飯がまずかっただけなのかもしれない。東京の店の狭苦しさに参ってしまっただけなのかもしれない。唯一たしかなのはとにかく、その回をわたしが快く思わなかったということだけである。

 

 とにかくその経験を悪しきものだと判断したわたしは、その結論に対する責任を自分の選択に求めた。つまり、わたしが嫌な気持ちになったことの元凶はわたしが誘いにイエスと言ってしまったからだ、という理解に至ったわけだ。そしてこれからは、たとえどれほど魅力的に見える会であっても、参加の要請にははっきりとノーを突きつけなければならぬ、という決意を固めることになった。

 

 もちろん当時のわたしが、その手の判断を下すのに十分な経験を積んでいたわけではない。人間関係のなかでそれなりの割合を占めるその種の儀式的領域を丸ごと切り捨てると決定するのは、もうすこしサンプルを集めてからでも遅くなかっただろう。

 

 だが当時のわたしは切り捨てた。切り捨てるのは褒められたことではないという知識は持っていたが、その手の人生訓に盲目的に従うほどにはまだ、当時のわたしは丸くなっていなかった。その手の人生訓に堂々と背くことができる向こう見ずな強さが、当時のわたしには確実にあった。

 

 その強さを失ったつもりはない。不快な会に無理をして出たほうがいいこともあるという主張にはいまでも賛同できない。参加しないやつは手を上げろと言われてだれも手を挙げないとき、成り行きの空気を断ち切って一番最初に手を挙げるひとりになることのできる自信は、いまなおしっかりと持っている。

 

 だがあのころのわたしを定義していたもうひとつの要素である、原理主義的な短絡性は消滅した。すべての飲み会が悪であるというわかりやすく極端な主張に、わたしは賛同できなくなった。

境界 ③

 これは、実感がわかないということなのだろうか。

 

 わたしはたしかにずっと学生だった。五分の一世紀のあいだ、途切れることなく学生であった。なにかを学ぶということは、すくなくとも建前の上で、わたしの本分であり続けていた。賃金の対価としてほかのなにかに貢献するということは、したことがないわけではないとはいえ、あくまで副次的なものだった。

 

 だから自分が学生でなくなるということが想像できない、というのは、すごく自然なことのようにも見える。そうでない状態を経験したことがないのだから、当たり前である。

 

 とはいえこの先の見えなさは、不労所得で食べていくと決めた人間をのぞいただれもが原理上体験するもののはずである。多くの人間は大学に九年間も通わないから、わたしよりも早い段階で経験している。学生でなくなるという事実は自分自身にとって巨大ななにかを意味するに決まっている、と論理的には理解しているのに、いつまでたってもその影もシルエットも見えてこないという、このふわふわとした不思議な状態を、きっとだれもが一度は経験している。

 

 新生活は現在とは断絶したものであり、だからしてきっとすこぶる不安であるべきなのに、その不安が一向に訪れる気配がないという不思議な楽天主義。いまにも崩れそうであるべきはずの楽観という足場は意外なほどに強固で、踏んでも揺すっても、わたしはそのふわふわした雲から落ちそうにない。すぐそこに世界の果てが迫っており、あと数歩進めばきっと見えない境界にぶち当たるはずなのに、すべての現象が不自然なほどに普段通りで、ためて見てもすがめて見てもなお、おかしなものはなにもみえない。

 

 そしてそんな状態だからこそ、その知覚不能の境界が社会に出た瞬間に突然、はっきりとしたかたちを取るなどという物語を、わたしはとても信じる気にならない。

 

 信じようとして信じられないということは、おそらく虚構なのだろう。

 

 新生活はきっとなにも変わらない。大学から大学院に行ったときがそうであったように、変化とは微々たるものであり、せいぜい新幹線の学割が使えなくなるとか定食の大盛りが無料でできなくなるとか、そういう違いにすぎない。それ以上の本質的な変化をわたしは予測できないし、予測できないということは心配もできない。心配ができないということは、人生の転換点であろうとなんとなく理解していたこの境界が、じつは大した境目ではなかった、ということになる。