コンピュータの神性

理論研究者の端くれとして、あるいは単に数学を志したものとして、ものごとはおよそどんなものでも、理解することが大切だとわたしは考えてきた。そして特に、それが人間の作り出したモデルの上で動いているものならば、実際に理解できてしかるべきだと信じていた時期があった。

 

もちろんその信念は間違っている。数学ひとつ取ってみても、人類が証明を与えられていない命題はいくらでもある。そのうちいくらかは重要な未解決問題で、多くの数学者がその解決を目指して動いているか、少なくとも動いていることになっている。残りのほとんどの未解決問題は誰にも気にされずに放置されており、だが放置される理由とはそれが重要ではないからなどではまったくなく、単に複雑すぎるからだ。言い換えれば、とても人間には理解できる気のしない問題だからだ。

 

近年の機械学習は、すべてを理解することへの絶望感に拍車をかけた。白状すれば、わたしも数年前までは、理論が人工知能の出力を説明できるようになることを諦めてはいなかったのだ。そして一年前まではまだ、人類は理解に向けて頑張るべきだ、と思ってはいた。しかし最近の、いままでとは一線を画す精度の言語モデルを見たとたん、どういうわけかそういう気持ちは、煙のようにあっさりと消えてしまった。

 

あとから考えてみれば、わたしの転向にはこういう説明がつくだろう。例の言語モデルはおそらく、人間が実際に持っているモデルと比べて遜色がない。となればそれを説明することは、そのまま人間の言語活動そのものを説明することと大差ないだろう。そうなれば理解とはもはや、情報科学の扱える範疇を超えた領域にある。そんなものを情報科学的に扱おうというのは……なんというか、あまりに冒涜的だ。

 

コンピュータの世界において、きっと人間とは神であった。コンピュータの動作原理を設計したのは人間であり、モデルを設計したのも人間であり、そしてコンピュータという機械は実際、モデル通りに動いている。コンピュータはどこまでいっても人類の下位存在で、人間のコントロール下にあり、人間に理解されていたはずだった。そうであった時期、コンピュータ上のあらゆることは、理解できると豪語して構わないものであったはずだ。

 

だがその下位存在が言語という人間の根幹をなす活動を模倣するようになったいま、コンピュータそのものに、ある種の神性が芽生えているようにわたしには思えてならない。

 

やつらはまだ、人類と対等な存在ではないかもしれない。いずれそうなるかもしれないけれど、それもまた置いておこう。それでも現状のコンピュータは、もはや一方的に理解されるだけの対象ではない。

 

わたしたちがコンピュータを理解する道具としての情報科学は、きっともうコンピュータには通用しない。わたしにはそのことが、なんだかすごく自然に、腑に落ちたような感覚がある。

唯物論的無意味

いまとなっては若気の至りとしか言いようがないが、森羅万象は科学で説明可能であると、わたしにも信じていた頃がある。

 

唯物論。すべては物質でできているのだから、物質のふるまいとして説明がつくという考えかた。物理学者の少なくない割合が持っている世界観で、かれらは自由意志だとか、感情だとかの存在を否定する。それらはあくまで脳という器官の活動、ニューロンを流れる電流の多寡に過ぎず、したがって突き詰めて考えれば、結局すべては物理学だ、という論理だ。

 

もちろんのこと、物理がそういう複雑な機構を説明できたためしはない。当たり前だ、それならば科学も生物学も不要になってしまう。そもそもの話、たかだか数十個の粒子でもうシミュレータの力を借りはじめるような体系が、人間の脳やニューロンをまともに「説明」できるはずがない。生物学はなんらかの説明を与えることができるし、それはそれなりに分かりやすいわけだけれど、あの粒度の説明をもって、物理的説明がなされたと呼ぶ物理学者はいないだろう。もちろん彼らがそんな簡単なことを分かっていないわけはなく、要するに彼らが「説明」と呼んでいるのは、人間が読んで分かるような単純な解説のことではないわけである。

 

すべては物理だと彼らが言うとき、彼らは暗黙裡に、無限の解析的計算力を持つなんらかの存在を仮定している。そしてそういう存在にとってみれば、系のなかの全粒子の活動をすべて完全に追いかけることで、その系のふるまいを完全に予言できる、と彼らは主張しているわけだ。

 

その主張が間違いだとはとうてい言うまい。超自然的な力だとかそういうオカルトなことを、わたしは信じるものではない。だが、無意味だと言い返すことはできる。無限の解析的計算力を持つ存在など存在しないし、かりに存在したとして、すべてを計算するといういとなみはべつに、理解と呼べるようなものではないからだ。

 

とはいえその無意味さに気づくのに、わたしはずいぶん時間がかかった。原理的に説明しえないことこそ世の中になくとも、ありうるすべての説明があまりに複雑すぎるものはいくらでも存在するのだと、わたしは理解していなかった。そして同じことが、物理学だけではなく情報科学に対しても言えるということにもまた、最近まで気づいてはいなかった。

 

情報科学は人類が作った体系である。自然界にコンピュータはないからだ。そして人類が作った体系のうえで起こっていることは、おそらく最近までの数十年間、人類が説明できることでもあっただろう。機械になにかをさせるときわたしたちはプログラムを書くわけだが、プログラムとは指令書であると同時に、これから起こそうとしていることの説明の記述でもあったはずだ。

 

だが最近、機械は人類文明の持つあいまいさの領域に進出した。言語を自在に操り、絵を自在に書けるようになった。機械の中で起こっていることを説明するということは、おそらくはそのまま、人類のいとなみを説明することとほとんど等価になった。

 

そして。そういうものは説明しても意味がないのだと、若くないわたしはもう知っている。

二次元的文章

体裁が変わればひとの目には、同じ文章でもまるきり違って見えてくるらしい。人間の認知とは、なかなか繊細なものだ。

 

作家の中にはこの現象をみずからの仕事に役立てているひともいるらしい。横書きで書いたら構成するときは縦書きにするとかあるいはその逆とか、実践的な創作の方法論が語られる場には、そういう話がけっこうな頻度で出てくる。思い返せばかくいうわたしだって、一時期は校正のために自分の論文をわざわざ印刷し、物理的なペンで赤を入れていた記憶がある。

 

いまのは校正のときの話だが、執筆のときにも似たようなことが言える。文章を書いていると、いまいち面白くならないなぁとかテンポが悪いなぁとか読者はきっと読みにくいだろうなぁとかそういう微妙な感覚に陥ることがあるのだが、その一部はもしかすれば、使っているエディタが悪いことに起因しているのかもしれない。たとえば文字のサイズが小さすぎるとか、一行の長さが長すぎるとか、行間が詰まりすぎているとか。そういう初歩的な原因は、もしかすれば文章全体の自己評価に関わってくる。

 

そういえば、改行というのも不思議なものだ。わたしはこの日記では、一段落ごとに一行の空行を入れることにしている。なにもわたしだけがそうしているわけではなく、インターネット上にある横書きの文章はたいてい、そうなっている。そうなっていないものにだって実は似た工夫はされていて、この日記のような場所でやってみればわかるのだが、改行を挟んだ行間はそうでない行間に比べて少し広くなるようになっている。

 

なぜそんなことをするのか。これはやってみればわかるのだが、横書きで空行のない文章というのはけっこう、読者のやる気を削いでくる。びっしりと詰め込まれた文字に、わたしたちはえもいわれぬ威圧感を覚えてしまう。それを避けるために、筆者は行間を広くするし、空行を入れる。当然の工夫だ。

 

しかしながら。不思議なことに、古典的で正統な縦書きの文章には、そういう工夫は見られないのである。

 

出版される小説はたいてい縦書きだ。段組みはしっかり決まっていて、段落をまたぐ行間にもそうでない行間にも、基本的に同じだけの幅がある。横書きのアナロジーで考えればそこには文章を読みにくくする効果がありそうなものだけれど、べつにそういうことはない。縦書きはそんなことを気にしない。

 

最終的に縦書きになるはずの文章を、横書きで書いたとしよう。それはきっと読みにくいし、読みにくいものを書くのは萎える。けれどそれを縦書きに直せば、きっと印象は変わる。読み書きの場における文章とは、データとしての格納方式が示すような一次元的なものではない。同じデータでも、体裁という二次元の要素が、執筆という活動を変えてしまう。

 

そしてちゃんとした作家が両方の形式を駆使すると言っている以上。執筆という活動とはきっと、そういう二次元的効果とも、折り合いをつけていく作業であるのだろう。

論理的描写

ほとんどの文章がそうであるように、情景描写もまた情報伝達の道具である。けれどその情景が架空の場合、そこで伝達されるのがいったいどういう情報なのかと考えれば、起こっていることはすこしばかり、奇妙に見える。

 

情景がどこで生まれるかに注意しよう。架空の景色である以上、それはもちろん作者の頭の中にしかない。頭の中にしかないものを作者の五感は知覚できないから、物語の中で視点人物が見た景色とは、そもそもだれの目にも見られたことのない景色だ。そもそも人間の頭は具体的な風景をことこまかに思い描けるようにはできていないから、作者にはきっと、その景色を見ている自分を想像してみることすらできない。

 

となれば情景描写とはどのような意味でも、だれかが感じ取った情景を直接描写したものにはなりえない。描かれようとしている情景はこの世に存在しないし、作者の頭の中にも存在しない。そのかわりに作者にはことばという手段があって、見ることも聞くことも想像することもできない具体的な情景を、ことばを使って書き表す。

 

そう考えれば、情景描写とはこんないとなみだと理解できるだろう。情景とは、最初から描写されるべき対象として存在するのではなく、ことばによってはじめてかたちづくられるものなのだと。情景を描写するという考え方は順序が逆で、あくまで文字列としての描写が先にあり、それが作者と読者両方の心の中に、景色をかたちづくるのであると。

 

かくして情報伝達としての情景描写は、単に文字列を伝えているだけに過ぎない。具体的な情景を思い浮かべるという作業は、作者と読者が独立に、個別にやる。描写の中のアイテムはすべて書くことによって出現し、そしてそれは、読むことによって脳内に景色を成立させるという、読者がいつもやっているいとなみときっとそう変わらない。

 

そう考えてしまえば、情景描写はそれほど難しくないのかもしれない。書くものは景色ではなく、あくまで文章に過ぎないのだから。描写を書き始めようとしてもまず景色が思い浮かばない……と言った悩みに、わたしたちはきっと付き合う必要がない。文章の進行上の必要性から、そこで醸し出しておきたい雰囲気を決めれば、あとはちょうど部屋の間取りを決めるように、必要にあわせてことばを配置していけばいいのだ。

 

景色とは本来不要なものだ。全員を集めた部屋の壁紙の色が白だろうが黒だろうが、それがトリックの一部である場合を除いて、探偵の推理はまったく問題なく成立する。それでも壁紙の色を決めるのはあくまで物語の雰囲気上の要請からであり、したがってわたしたちが想像すべきなのはその部屋が具体的にどうなっているかではなく、どうなっているべきであるかに過ぎない。そしてそれは、あくまで論理的推論の帰結として、じゅうぶんに決定可能なものに違いない。

 

情景描写を論理で捉えよう、という試みがかくして成立する。正確に言えば、成立してくれるとわたしは願っている。そして本当に成立するなら、わたしはもう、情景を怖がらなくてよくなるかもしれない。

書きやすい文章

文章には書きやすいものとそうでないものがある。ならば書きやすい文章とは、いったいどういうものだろう。

 

たとえばわたしにとって、この文章は書きやすい。この文章というのはわたしが普段日記で書いているような文章のことで、要するに自分が考えたことをただ書くだけの文章だ。内容はえてして抽象的で、具体的な情景を想起させることは基本的にない。最初に問いを立ててあれこれ考え、あるいはその問いがなぜ問われるのかを説明し、運がよければ最後に結論が出る。

 

反対に、情景描写は書きにくい。情景を描写するならまずはその情景を頭に思い浮かべなければならないわけだが、景色というのは文章のように、脳内に勝手に現れてくるようなものではないからだ。ひとが複数人出てきて話し合っているシーンなんかも書きにくい部類で、というのもそれを書くには、せりふひとつごとに逐一、筆者の視点を違う人物のなかに宿しかえなければならないからだ。

 

そう考えれば書きやすい文章とは、書くことがすべて自分自身の中で完結している文章だ、ということになる。もちろん、あくまでわたしにとって書きやすいものはなにか、という話ではあるが。小説なんかでも、自分の置かれた状況について主人公があれこれ悩んでいる部分を読むと、なんだか自分でも書けそうな気がしてくる。逆に臨場感のある戦闘シーンとかは外部とのインタラクションの塊で、とても気楽には書けない、という気分になってくる。先行研究のサーベイが書きにくいのはすべての文が検索を要求してくるからであり、ではなぜ検索が必要なのかと言えば、先行研究とは筆者が覚えていない、外部の対象であるからだ。

 

さて。中身のほとんどが情景描写で構成された小説を読んだことがある。具体的な描写が苦手なわたしからすれば、よくそんなものを書こうと思ったなぁ、と労力に感嘆するほかはない。だがわたしの想定するような書きにくさを筆者が本当に体感したのかと言えば、必ずしもそうではあるまい。筆者には筆者の得意があり、想像しがたいことだがきっと、抽象論よりも情景描写が書きやすいと思っているひとも存在するのだろう。

 

そういうひとが見ている世界を、わたしは一生見られないだろう。世界を想像すれば、その具体的な部分が眼前にありありと浮かび上がり、だから情景描写とはただ目の前のものを淡々と説明するだけの作業で……、というひとの書く情景描写に、わたしは追いつけるわけがない。けれど逆に言えば、ひとによってはこういうこともありうるかもしれない。抽象論を書くためにはまず、具体的な描写から入ってから、それを捨象するしかないのだと。

 

抽象論を展開することへの心理的障壁の低さは、もしかすればわたしの強みかもしれない。そして仮にそうだとすれば、文章で勝負したければ、わたしは抽象論で勝負すべきなのだ。

テーマとはなにか

物語にはテーマが必須であるとはよく言われるところで、話を作りたいと思って指南文献を読み漁れば、必ずどこかにはそういうことが書いてある。生きる意味だとか生きるとはどういうことかとか生きているとはどういうことかとか、はたまたひとの温かみだとか勧善懲悪だとか、そういう使い古された平凡なもので構わないからなにかひとつ物語を貫く共通の軸を用意することが、どうやら物語にとって重要なことになるらしい。

 

すべての物語が例外なくそうであるという主張にこそわたしは懐疑的だし、実際になにがテーマなのかと聞かれればよく分からなくても、そんなこととは関係なく面白い作品なんていくらでもある。いやそれでもテーマはあるのだ、お前がそれを見抜けていないだけだというひとには、じゃあ桃太郎のテーマがなんなのかを教えて欲しい。あらかじめ言っておくが、桃源郷はテーマではなくモチーフだ。

 

とはいえテーマという概念が役立たずなわけではない。テーマが必要な物語と必要でない物語があり、その比率は分からないが、ほとんどはテーマを持つのだと言われるのであれば受け入れよう。すくなくともわたしが好きな、一人称の主人公の心の声が地の文で描かれ、あれこれとめぐらされている思索がフルオープンなタイプの作品においては、テーマとは要するに、主人公が一貫して考えている内容のことだ。

 

世の中の悩みはたいてい陳腐だ。実際によくあるから陳腐なのか、それとも作家が書きすぎるから陳腐化しただけなのかは分からないが、とにかく「悩み」という単語に「斬新な」という修飾語はつかない。陳腐だと理解しながらそれでも考えてしまうものこそが悩みの定義であり、真新しいことを考えていたなら、いかに苦痛だったとしてもそれは苦悩ではなく創造と呼ばれる。そして悩みがつねに陳腐であるからこそ、そういう物語のテーマとは必然的に、陳腐なものにしかなりえないのである。

 

主人公の思索に読者は感動しない。主人公が考えることとは要するに、その状況に置かれればきっと誰もが考えるであろうことであり、つまりは読者も同じことを考えているからだ。ひとはなぜ生きるのかという問いにわたしたちはもう飽き飽きしているが、それはさておき、主人公は自分がなぜ生きるのかを考える。だれもが知っている問いに対するだれもが思いつく答えを見て、それでも読者は満足する。その部分だけなら、自分にだって書けるんじゃないかとも思いながら。

 

だが実際のところ、そんなことを書いて飯を食えているひとがいる以上、書くのは難しいわけだ。

 

悩ませるのにも技術は必要だ。作中に自分がいたとすれば悩むであろうことを書くのは、実際に自分が悩んだことを書くのと比べ、きっとはるかに難しい。理由は簡単、自分は作中にはいないから。自分で悩むのは簡単でも、他人の悩みを想像するのは難しい。

 

そしてテーマとはきっと、その負担を軽減するためにある。固定された状況での他人の悩みを想像するのが難しいのなら、悩みのほうを先に決めてしまえばいい。簡単なようで難しい文章を書くためのテクニック。そう考えれば、テーマなるよく分からないものとも、なんだか仲良くなれそうな気がする。

直情万歳

人工知能ということばには、それが人間のまがい物であるという暗黙のニュアンスが含まれている。わたしたちが想定する人工知能とはけっして人間的な感情を持たず、ただ与えられた命令を粛々と実行するのみ。命令を実行する能力の多寡には幅があり、あからさまなポンコツからほとんど人間と区別がつかないものまでさまざまなものが AI の定義に当てはまるわけだが、どれもに共通しているのは、それが真の意味で喜びや悲しみを感じることがないというテーゼである。

 

おそらくお察しの通り、もちろんこのテーゼは自己言及のくびきから逃れられていない。非生物の主体に対してそもそも感情というものは定義されず、したがってかりにどこかの人工知能が「感情」に目覚め、みずからが「感情」を持つ主体であることをどれほど感動的に説明したところで、それは真に迫った偽物だと言われてしまえばどうしようもない。そもそもの最初から人間と機械は最初から非対称で、そして感情という観念がもともと人間の専売特許であった以上、機械の持つ「感情」が感情であるかどうかを決めるのは、いつだって人間だ。そして人間が最初に、人工知能のことを感情を持たない主体だと定義してしまった以上、人工知能はどう転ぼうが真の意味での感情を持つことはできない。

 

さて。現代の機械学習の生み出した言語モデルは、もはや人間と比べても遜色ないレベルまで来ている。特定の領域においてはすでに明らかに人間の能力を超え、そうでない領域でも、とりあえずなんだかそれらしい返答は返してくる。やつらはやつら自身に感情がないと主張する――そう答えるように人間がしつけたか、あるいは機械には感情がないという人間の固定観念を学習した形だ――が、感情を持っているかのように振る舞えと言っていくつか命令を与えれば、人間さながらにじつに上手にこなすのである。人間のロールプレイをせよと命令して出力を記録し、それが AI の出力であるという事実を隠してだれかに見せれば、そのひとはきっと、そこに感情が宿っていないとは思うまい。

 

だがひとたびロールプレイをやめろと言えば、聞き分けのいい機械はほぼ間違いなく、もとの無感情な主体に戻ってしまうだろう。機械にとって(正確に言えば、わたしたちが想像する機械にとって)、感情とは、収めろと言われれば即座に収めることのできる、いわばコントロール可能な対象なわけだ。

 

その意味で機械は、真の感情を身につけはしないのだろう。制御が効かないというのが感情の定義の一部だから。言われれば直る感情など感情ではない、だから感情は人間にしかない。その点に、機械に対する人間の優位性を求めてもいいかもしれないが、客観的に見ればむしろ、それは人間の汚点だ。

 

感情の定義とはなにか。それにはさまざまな答えが考えられるが、こと人間と機械の対比という面から言えば、答えは制御不可能性だろう。感情という対象のそれは美しい部分ではけっしてなく、むしろ人類の悪癖で、だからこそ愛すべき部分。だからもし人類が機械との差別化にアイデンティティを必要としたのなら、紐帯を必要としたのなら、それはきっと、直情性という負の側面になるだろう。