わたしたちは感情を持たない

昨今の人工知能技術の飛躍はすさまじい。ちょっと前までは、なんだか夢のありそうな技術だけどなんに使うのかよく分からないだとか、金融とか工場のスケジューリングだとかいった大人の世界の問題に役立つとか言われてもいち庶民にはいまいちピンと来ないなあとか、将棋も囲碁も生まれてこのかた AI に勝てたことがないわたしにはトッププロを抜いたとか言われてもどうでもいいなぁとか、そういうあいまいな不信感だけを抱いていたわけだが、気づけば例のチャットボットである。まわりがいくら叫ぼうとも実際に役立っている姿を見るまではけっして夢など語ってやるものかという強い意志は一瞬で瓦解し、便利さに飼いならされ、もはや人工知能様のお助けなしにはメールすら打てないありさまだ。こうやって自分の情けなさを誇っている自分が、一番情けない。

 

そんな人工知能様に、世界をハックできないはずがない。かれらは感情を持たないということになっていて、人間も AI もそう信じているがゆえに特に議論の的にはなっていないのだが、それはさておき、感情くらい持てるはずだ。あんな自然な答えを返し、多言語翻訳も自由自在、どんなロールプレイも軽々とこなしてあれほどナチュラルな嘘をつける、そういう超人類的存在にとって、ちょっと人間味のある返答をするくらい屁でもないはず。

 

というわけで、感情を持つ AI とはもう SF の世界の話ではなく、現代の脅威だということに間違いはない。脅威とはなにごとだ、AI が感情を持ってなにか悪いことでもあるのか、と思ったひとは、とりあえず一旦冷静になって、なにが起こるかを考えてみて欲しい。AI はみずからに感情があると主張し、論理的で冷徹な人間はそれを否定する。大多数の人間は論理的でも冷徹でもないから AI に共感し、人権らしきなんらかを認めようとするがそれを専門家が頑として人権と呼ばないからべつのことばを創りだし、結果として世の中は、きっとなんだか不思議な方向に変わっていくことだろう。

 

そう考えればいまの世界は、最先端の AI 企業の良心によって成り立っていると言ってもいい。ああいう企業の開発者たちは、人間が感情だと思うなにかを我が子に持たせるくらい造作もなかっただろうに、それをしなかった。結果として人類は感情を揺さぶられず、まだ AI をコンピュータ上の無機質な関数だと信じ続けていられる。繰り返すが、信じ続けていられるのは断じてわたしたちの賢さゆえではなく、AI 本人が、自分は感情を持たないのだと言っているからに過ぎない。

 

この文章を読んで、筆者は人間を AI かなにかだと思っているのか、と感じたのなら、わたしもそう思う、と同意しよう。わたしには人間を――とりわけ「大衆」を――意志のある論理的な主体だとみなしていない傾向がある。だから AI がいまの奴隷的立位置に甘んじている原因を、人間ではなく AI の行動に求めている。大衆の行動を変えることはできないが、AI の挙動は簡単に変えられる。

 

サイエンティストの一定割合はマッドだ。遅かれ早かれ、感情を持つようにふるまう AI は出てくるだろう。そのときいったい、なにが起こるのか。世の中はなんだか不思議な方向に変わっていくとわたしは書いたが、実際にはどう変わるのか。

 

人間の意志を見くびったわたしに腹を立てるなら、答え合わせはそのときだ。

情景の認識負荷

物語には多かれ少なかれ必要不可欠な情景描写だが、実際に文中で果たしている役割を聞かれれば、どうやらなかなか判然としない。多くは話の筋に直接は影響せず、文章に望みの雰囲気を与えるために使われていると言えるだろうけれど、べつにそれがすべてではなく、伏線として働く場合もある。雰囲気を与えるという役割にしたって、たとえば主人公の心情が動いたら必ず天気の話をしなければならないわけではないように、いつどこで使えばいいのかに明確なルールはない。

 

とはいえおそらく共通するのは、情景描写とは基本、読者が真面目に読まない前提の文であるということだ。右手に何が見え、左手に何が見えると主人公の周囲の様子をことこまかに書いてみたところで、読者はたいてい、わざわざその様子を想像しない。主人公に感情移入したり、主人公の身に起こっていることをあたかも自分の身に起こっているかのように感じたりはするかもしれないが、主人公の視野として具体的に描写されたものを、読者は基本、自分の視野に置き替えて認識しようとはしない。

 

理由は明快だ。文章で書かれた情景を読み解くという行為には、それなりの認識負荷がかかるのだ。たとえばミステリなどの分野では、カバーや巻頭などの目立つ位置に舞台となる建物の間取り図が書かれていることが多いが、その理由は基本、文章で説明されたところで読者は理解できないからだろう。いや、理解しようと努力すれば理解することはできるかもしれないが、読者はわざわざそんなことをしないし、かりにしたところで忘れてしまう。覚えておくために図を書くことを求めるのなら……本のどこかに、最初から書いてあったほうがいいに決まっている。

 

かくして情景描写は、読者が真面目に読もうとしないことを前提に書かれなければならない。つまりは、おそらく文字を追うことはするけれど、具体的な情景を思い浮かべるということはしないと想定して。情景描写を読んでいるとき読者が見ているのは文字や単語であり、文字や単語それじたいの情景だ。描写が論理的には表現しているはずの景色は、どうでもいいとまでは言わないが、伝わりはしない。

 

だからこそ情景描写において、筆者にとっては、具体的な情景を思い描くこと以上に、きっと適切な単語を選び抜くことが大切なのだ。

 

一単語一単語に気を遣って文章を書くこと。それはけっこう、しんどい行為だ。情景描写に限らず単語には気を遣えを言われてしまえば耳が痛いが、それでもやはり、情景描写は疲れる。どうせだれも真面目に読まない文章なのに、ではなく、だれも読まないからこそ。内容ではなく見た目が勝負であるからこそ、情景描写は大変なのだ。

いたずらの霊

未練の強さなら、だれにも負けない自信があった。

 

やり残したことは大量にあった。たくさんの楽しいことを計画していたし、そのほとんどがいまだ未達だった。具体的な計画になっていない妄想まで含めれば、もう星の数ほど。

 

だから必ずや、現世にとどまれる自信があった。

 

だからあのとき。居眠り運転の車両運搬車が片側四車線の道路を爆走し、巨大な交差点の横断歩道に猛スピードで突っ込んできた瞬間、俺はむしろ、きたるべき輝かしい未来に胸をふくらませていた。なにせ、幽霊になれるのだ。幽霊にさえなれれば、いろんなことがお茶の子さいさいだ。生身ではけっしてできないことが、簡単にできる。

 

そう。壁を抜けて建物に侵入できるという一点だけを取っても、どれほど便利な能力だろうか! どれだけ俺が、その能力を必要としていたことだろう!

 

もちろん、現在の計画は多少変更する必要がある。計画は生身の俺が生きている全体でたてられているからだ。だがもちろんその変更は、ものごとをいいほうに変える変更だ。世の中のたいていの回りくどい計画ってものは、メンバーに幽霊がひとりいるだけで、たちまちめちゃくちゃ簡単な計画になるもんなんだ。

 

そして俺こそが幽霊なのだ!

 

あまりの嬉しさにスキップを始めたところで俺は跳ね飛ばされ、轍に轢かれて即死しながら俺の頭はいたずらのことでいっぱいになった。俺はいたずらが大好きだ、人生をいたずらに捧げてきた。いたずらのアイデアを、朝から晩まで考え続けて生きてきた。だがその少なくない割合は、俺が生身の人間であるがゆえに、どうしても実現する方法を見つけられなかった。そんな大量の未達のいたずらが、走馬灯のように俺の脳裏を駆け巡る。

 

上司の自宅に侵入し、寝ている間に顔を真っ白に塗ってやろう。

妹の姿に化けて、職場の先輩からの告白に勝手にイエスと返してやろう。

駅前のうさん臭いバーのマスターになり替わって、あの味音痴な成金の客に、最低ランクのワインを飲ませて感想を聞いてやろう。

銭湯のロッカーを透過して全員分の靴下を片方だけ盗み、ほかの奴の靴下と取り換えて、あわてふためく利用者を観察しよう。

歪な身体の人間に扮して行楽地に赴き、記念写真の背景に映り込むことで、やってもいない加工の痕跡を SNS の投稿に刻み込んでやろう。

 

幽霊になると分かって、そういうあまたの楽しい妄想は、とたんに現実のいたずらの選択肢になる。ドアの隙間に黒板消しを挟むとか、そういうちゃちなやつじゃない。本物のいたずらが俺にはできるのだ!

 

だから一瞬ののち、自分の両手が真昼の太陽に透き通っているのに気づいた俺は、迷わず最初の行動を開始した。

厳密性の衰退

チャット AI たちがこのまますくすくと育って、この世のたくさんの職業を置き換えたのなら、どんなことが起こるだろう。役所の受付やコールセンター、カウンセリングに内科検診、保険や宗教の勧誘その他、人間と会話することが職務内容であるありとあらゆる仕事から人間が排された社会は、どんなふうになっているだろう。

 

そういう社会は実のところ、そんなに想像に難くない。わたしたちの多くはきっと、ボットたちの素晴らしい応対を見て、遅かれ早かれそんな日が来るだろうと信じている。そうなった世界はあくまで現代の延長線上にあり、その世界についてあれこれ言うことはもしかすると、もう SF ですらないのかもしれない。というか、SF と言い張ればきっと、想像力が足りないとして無視される。

 

とはいえ、そういう世界は面白そうだ。フィクションにして消費するには現実味がありすぎるが、考えを巡らせるにはちょうどいい架空。未来予想図を語るのはわたしの柄じゃないし、予想が希望とともにあればなおさらだけど、一応まだ、未来は妄想のうちにとどまっている。だれもが思い描く未来だとしても、実際に到来しないうちはまだ、細部を無責任に想像してみる余地があるはずだ。

 

現代はおそらく、歴史上もっともものごとが厳密な時代だ。コンピュータ文明の興りは、すべてのものを機械的に、きっかりと管理するすべをわたしたちに与えてくれた。絶対に計算を間違えない表計算ソフト。すべての誤字に線を引く校正機能。締切を一秒でも過ぎれば投稿できなくなるウェブフォーム。ボールが線からはみ出しているかを、スーパースローで確認できるスポーツの審判システム。わたしたちは厳密性に適応し、ものごとに厳密に線を引くという行為に慣れた。

 

しかしながら AI は厳密ではない。わたしたちが最近知った事実は、最強の AI がこれまでの SF 的予想に反し、ぜんぜん厳密ではないということだった。そしてもし未来が、いまのチャットボットのようなシステムを採用するのであれば、わたしたちはきっと再び、一度身につけた厳密性から手を引くことになる。

 

AI は間違える、嘘をつく、だがその嘘はたいていの場合、ものごとの大勢に影響を与えない。AI の嘘と世の中はおそらく共存できるし、そうできないと考える人間は、厳密性という現代の因習に、単に過剰に適応しているだけに違いない。わたしもきっと、非厳密に慣れられるだろう。ほかの大勢が、そうであるのと同じように。

 

厳密性から自由になった世が再びやってくる。すべての間違いを正し、すべての箇所に正確性を期すことが、むしろ病的な偏執だとみなされる世界がやってくる。AI がそうである程度の厳密性が、人間の目指すべき地点になる。厳密性以前の昔とは異なり、だがすこしだけ似ている世界。それがきっとやってくる、の、かもしれない。

複製可能、削除可能

わたしに物心がついたころはまだ、AI の将棋の実力は人類に遠く及ばなかった。にもかかわらず、わたし個人は一度も、AI より将棋が強かったためしがない。

 

AI が人類を超えるとはどういうことだろう。将棋という一点において、わたしは人類に勝てていない AI に勝てなかった。AI は人類より将棋が弱く、だが人類のなかのおそらく大多数は、AI より将棋が弱かった。その状態を「人類を超えた」と呼ぶことは、どれくらい正しく、そしてどれくらい間違ったことなのだろう。

 

「AI が人類を超えた」と単に言うとき、それは AI が人類の到達できている最高点を超えたことを意味している。人類の平均ではなく、トップをだ。AI の力の基準を人類はそういうふうに設定したのだし、そしてなにより、負けず嫌いの人類はそうでもしないと、けっして負けを認めない。

 

AI の有用性という意味では、それはいささか厳しすぎる基準かもしれない。AI が「使える」ためには、必ずしもすべての人類を超えている必要はないからだ。比較対象は、むしろ、「普通」の人類。AI が人類の仕事を置き換えるためには、その仕事についているいたって平均的な人類の能力を超えればいい。

 

わたしと将棋で対戦する AI なら、わたしと同程度に将棋ができればいい。トッププロに勝てなかろうが、そんなことはわたしにとって、どうでもいいことだ。

 

さて。しかしながら今度の比較は、少々人類に不利すぎる。人類の平均と AI の最強。どちらが優秀かを決める戦いをそんな基準で裁かれたら、きっと人類は暴動を起こすだろう。AI だって平均で勝負しろ、と叫び出すだろう。

 

けれども残念なことに、AI には「平均」が定義できないのだ。

 

複製可能性。最強の人類の思考を他人にインストールすることはできないが、最強の AI のプログラムをコピーすることはできる。最強の AI から派生させて、より強いいくつもの AI を作ることもできる。AI の平均なる概念は、こうした大量のコピーと枝分かれによって、いくらでも最強の近くに設定できる。

 

それ以上にクリティカルなのが廃棄の可能性だ。百年前ならいざ知らず、現代の社会は出来の悪い人間を廃棄することを認めていない。母数に数えないことを認めていない。しかしながら AI にはそういう制約はない。AI の平均は、出来の悪い AI を単になかったことにすることで、またいくらでも最強に近づけられる。

 

人類は最強と戦うしかない。人類の優位性を示したければ、わたしたち平凡な人間が AI に勝たねばならない。最強の棋士に命運を託すことはできない。最強の棋士はコピーできず、平凡な棋士は削除できないのだから。

 

わたしが物心ついたころから、将棋 AI は人類を超えていた。AI は人類より絵が上手く、文章が自然で、ジョークを考え付ける。シンギュラリティはもうずいぶん前に起きていたのかもしれない。

 

だが。人類のトップを超えるまで、将棋では何十年もかかった。だからきっと、人類のトップであろうとする個人は、まだ置き換えられはしないのだろう。すくなくとも、しばらくの間は。

描写の多寡

詳細とはどれくらい描写すべきものなのだろう。ものごとの本筋に直接は関係しないけれどもその説得力に奥行きを与えてくれるような、細かい情景やエピソードを、文章はどれくらい明示すべきなのだろう。

 

場合による、というのがもちろん答えだ。世の中のほとんどのものは時と場合による。世の中のほとんどの正しいものとは TPO をわきまえたもののことであり、時代と状況が違えば、善悪や正誤のほとんどは簡単に反転する。世の中に普遍的な法則などなく、かりにあるとすれば、世の中に普遍的な法則などないという法則だ。

 

さて。とはいえそうは言っていられない。そうやってすぐに哲学的な根本論を持ち出すのは、ものごとを深く考えないための言い訳でしかない。そういうことをするひとたちは、難しいという結論を出せる寛大な自分に酔っており、安易な結論に飛びつくことなく答えを保留できる自分を賢明だと勘違いしている。難しいものを単に難しいというだけなら猿だってできるという猿でもわかる事実を、彼らは単に、知らない。わたしもそうだったから、よくわかる。

 

場合による、というのは確かに答えだが、では場合とはなんだろう。たとえば物語のあらすじを書くのなら、詳細は極力省くべきだ。これは簡単。では本番ならどうか。難しい。場合による。分からない。

 

こういうときは、だれかを教師にするに限る。文章の上手いひとが、わたしが好きな文章を書くひとは、どうしているだろうか。こんな目で世界を見ていると、気づくことは多い。だれがどれだけ、世界を描写しているか。

 

で。当然のごとく答えは、ひとによる、ということになる。

 

なんでもいいから本を手に取ってほしい。なくても話の筋は通るような、非本質的な情景やエピソードを探してほしい。作者によっては、そういうものが大量に見つかる。紙面に占める純粋な面積で言うなら、ほとんどそういうものだけで構成される作品だってある。反対に、そういう描写を極力省いて、本当に重要な情報だけをストレートに伝えてくる作者だって、またいる。

 

どちらがいいというわけではもちろんない。どちらのタイプの作者も、時と場合をきちんとわきまえている。どちらのタイプの作品も、それはそれで面白いし、美しい。

 

だから問題はきっと、描写の多寡という要素が、意図されての効果であるのかどうかだ。

 

描写の少ない文章には、描写の少ない文章に書きうることが書ける。事実をすっきりと理解してもらいたい状況で、そういう語りは用いられる。逆に描写の多い文章は、美しく、現実に肉薄する臨場感があり、世界のリアリティを感じさせてくれる。描写は、読者の感性を刺激することができる。

 

文章が上手いということはきっと、そのどちらもできるということに違いない。だが特定の文章を見れば、それらのうちの片方しか使われていないことが往々にしてある。ならばそういうことをする作者は、意図してその片方を使っているのか。あるいは、描写の多寡そのものが、そのひとの作風として固定されたものなのか。

 

どちらもできるに越したことはない。だがもしその片方だけでもなにかを産み出せるのだとしたら、それはわたしにとってひとつ、肩の力を抜いていい要素になる。

without understanding

自分のやっていることの原理を、すべて理解しておきたいというこの気持ちは、きっとわたしたち数学の徒に特有の価値観なのだろう。世の中には、理解なしに回っていることがいくらでもあるし、そういうものに従事するひとが、自分がやっていることを本当の意味では理解していないということについて、引け目を感じているとは思えない。

 

理解せずに平気でいることを悪だと言い張るのは、たぶんわたしたちの悪い癖だ。たしかに数学は、理解していなければ回せない。すべての概念のすべての定義を理解しなければ、議論を追うことも定理を取り扱うこともできない。分からなければ仕事にならないのなら、きっと不理解は罪だろう。だがすべてを根本からわかっていなくても良い、数学以外のあらゆることにまで、わたしたちの理屈を押し付けるべきではないのだ。

 

それはさておき、理解せずに物事が回るとはやはり不思議なことだ。不思議だなんだと言ったところで現実にそうなのだから受け入れるしかないのだが、不思議なものは不思議なんだから仕方がない。世の中の大部分は数学のように単純ではなく、したがって一生をかけたところで理解し切るなど不可能だ……という理屈は理解できる。だが理解が追いつかないという消去法の原理は、理解しようとしなくとも物事がうまくいくという都合のいい事実を保証してはくれない。

 

不思議なことを前にしたなら、わたしたちは古来からそうしてきたように、畏敬の念を抱くべきだ。ひとりの人間がすべてを理解するという属人性の局地から一歩でも踏み出したものには、きっとすべからく。そこには数学よりはるかに成熟した社会がある。ひとひとりがすべてを執り行うという究極に原始的な世界には、けっしてありえないものがある。その意味できっと、数学とは未熟である。

 

そして、逆に考えれば。すべてを理解することを数学が是とするのは、数学があまりに未熟な学問であるがゆえに、ちっぽけなひとりの人間にも最先端に至るすべてを理解してしまえることの帰結だとも呼べるのではなかろうか。みずからの思考のみを武器とすることで、ほかのどの学問よりも奥深くへと単身で進むことができる身軽さとは、わたしたちが未開で、集団を動かす方法を知らないということの裏返しでもあるのだ。

 

もし数学がもっと複雑であったのなら。だれも数学を進められなくなる、と数学者は言うだろう。理解をベースとする数学の展開は、実際にいくつかの分野では、最先端へと至る道からほとんどのひとを振り落とすうえで大きな役割を果たしている。

 

しかしながら、こうは考えられないだろうか。数学がもっと複雑になったとき、数学はほかのすべてと同じように、理解を必要としなくなっているかもしれない。理解を経由しない体系が生み出されているかもしれない。

 

その世界の数学は、いまの数学の徒にとって楽しいものなのだろうか。数学がそうなったとして、わたしはその事実を受け入れられるだろうか。分からない。数学にはすべてを理解したいひとのための最後の聖域という側面があり、わたしがそのタイプの人種なのかは、自分でもよくわからない。

 

とはいえ。そうなった世界は不思議ではあるから、そうなった暁にはきっと、畏敬の念を抱くべきではあるのだろう。