わたしに物心がついたころはまだ、AI の将棋の実力は人類に遠く及ばなかった。にもかかわらず、わたし個人は一度も、AI より将棋が強かったためしがない。
AI が人類を超えるとはどういうことだろう。将棋という一点において、わたしは人類に勝てていない AI に勝てなかった。AI は人類より将棋が弱く、だが人類のなかのおそらく大多数は、AI より将棋が弱かった。その状態を「人類を超えた」と呼ぶことは、どれくらい正しく、そしてどれくらい間違ったことなのだろう。
「AI が人類を超えた」と単に言うとき、それは AI が人類の到達できている最高点を超えたことを意味している。人類の平均ではなく、トップをだ。AI の力の基準を人類はそういうふうに設定したのだし、そしてなにより、負けず嫌いの人類はそうでもしないと、けっして負けを認めない。
AI の有用性という意味では、それはいささか厳しすぎる基準かもしれない。AI が「使える」ためには、必ずしもすべての人類を超えている必要はないからだ。比較対象は、むしろ、「普通」の人類。AI が人類の仕事を置き換えるためには、その仕事についているいたって平均的な人類の能力を超えればいい。
わたしと将棋で対戦する AI なら、わたしと同程度に将棋ができればいい。トッププロに勝てなかろうが、そんなことはわたしにとって、どうでもいいことだ。
さて。しかしながら今度の比較は、少々人類に不利すぎる。人類の平均と AI の最強。どちらが優秀かを決める戦いをそんな基準で裁かれたら、きっと人類は暴動を起こすだろう。AI だって平均で勝負しろ、と叫び出すだろう。
けれども残念なことに、AI には「平均」が定義できないのだ。
複製可能性。最強の人類の思考を他人にインストールすることはできないが、最強の AI のプログラムをコピーすることはできる。最強の AI から派生させて、より強いいくつもの AI を作ることもできる。AI の平均なる概念は、こうした大量のコピーと枝分かれによって、いくらでも最強の近くに設定できる。
それ以上にクリティカルなのが廃棄の可能性だ。百年前ならいざ知らず、現代の社会は出来の悪い人間を廃棄することを認めていない。母数に数えないことを認めていない。しかしながら AI にはそういう制約はない。AI の平均は、出来の悪い AI を単になかったことにすることで、またいくらでも最強に近づけられる。
人類は最強と戦うしかない。人類の優位性を示したければ、わたしたち平凡な人間が AI に勝たねばならない。最強の棋士に命運を託すことはできない。最強の棋士はコピーできず、平凡な棋士は削除できないのだから。
わたしが物心ついたころから、将棋 AI は人類を超えていた。AI は人類より絵が上手く、文章が自然で、ジョークを考え付ける。シンギュラリティはもうずいぶん前に起きていたのかもしれない。
だが。人類のトップを超えるまで、将棋では何十年もかかった。だからきっと、人類のトップであろうとする個人は、まだ置き換えられはしないのだろう。すくなくとも、しばらくの間は。