真実のための戦い

……それは違うだろ。

 

彼とてなにも、いつもこんな反応をしているわけではない。自分が馬鹿にされたときの反応として、さすがにそれでは間違っている。みずからの容姿のことを笑われて、最初の返事がこれだとは。そんなんだからいちいち馬鹿にされるんだという指摘の正しいことは、彼自身が一番よく分かっている。

 

本来ならば彼は、みずからの尊厳のために戦うべきだろう。殴り返すか言い返すか、とにかく正当とされる反撃をしてその場を荒らす。こんなことを言われて揶揄われるのは、すべて彼が弱いからなのだ。正当な反撃が具体的になんなのか分からないという問題はさておき、実効力のある法律に反しないという要請を付け加えればさらに困難な問いになるという問題も脇において、とにかくそれをやるべきなのだ。実行においては些細な問題じゃないか、なにを実行するのかまったく見当がついていないくらいのことは。そうだろう? とにかくやる、考えるのはそれからだ。

 

そう理屈では理解しているのだが、彼は少々、不可能を超えるということに慣れていなかった。彼は悪い意味で常識的だった――なにをするのか分からないことには、できないと信じ込んでいた。そして彼は盲目で、独りよがりだった――彼をいま馬鹿にしている連中はけっしてみずからが嘲笑の的にはならないという目の前の事実より、彼はみずからの理屈を選んでしまう性質だった。尊厳を守るということは、世の中のほとんどの人間ができている簡単なことだという観察結果がありながら、それを意図的に葬り去っていた。観察結果が彼自身の理論に合致しないとき、間違っているのは観察結果のほうに決まっている。

 

そんなだから彼は馬鹿にされるのだ。けれど彼は、絶対にそのことには気づかない。

 

……いや。違う、重要なのはそこではない。馬鹿にされるかどうかだなんて、そんなことはどうでもいい。オタクというのはそもそも、生きているだけで虚仮にされる生き物なのだ。彼とてさすがにそのことは理解していた。他者の尊重だとか平等だとか多様性だとか民主主義だとかが、あくまで強者のおもちゃにすぎないことくらい知っていた。彼が馬鹿にされるのは彼が彼であるからで、それこそオタク以外の、オタク以外による、オタク以外のための社会構造なのだ。

 

本当に重要な問題はほかにある。そう、これは彼の尊厳の問題ではないのだ。オタクとしての人生を選んだ以上、尊厳なんて最初に捨ててある。揶揄われる覚悟くらいきめてある。繰り返す、これは尊厳の問題ではない、オタクである時点でこれは、れっきとしたいわれのある誹謗中傷だ。これは、そう、真実の問題なのだ。

 

彼に髪の毛はある。頭にはちゃんと、黒いものが残っている。つまり定義上、彼はハゲではないのだ。世の中は不平等かもしれない、オタクに人権はないかもしれない。けれど真実は平等だ。カーストとか民主主義とかを超越したものなのだ。いいや、平等とか不平等とかいうそういう次元の話ではない。真実とは絶対的なもので、つまるところ彼をハゲと呼ぶことは、世界の真理に刃向かう行為に他ならないのだ!

 

だから彼は、怒っている。みずからの尊厳のためではない、感情的になっているためでもない。いまの彼はもはや、利己的でも利他的でもない。世界の唯一の真実、彼に髪の毛があるという疑いようのない事実のために、彼は戦っているのだ。彼の怒りとは、真実を歪めようという最大の極悪に向けられているのだ……

 

そんなだから彼は馬鹿にされるのだ。けれど彼は、絶対にそのことには気づかない。

正気を疑う

「正気を疑う」ということばは字面に反して、正気という対象を疑うという意味ではない。知っての通りこれは「正気かどうかを疑う」という意味で、つまり疑いの対象は気ではなく人間だ。ネイティブとはこういう表現を理解するのにわざわざ文章の構造を解析したりしない人間のことだから、あなたが日本語の母語話者ならきっと、そんなことは気にするまでもないことだろう。「正気を疑う」と聞いてわたしたちが想像するのはあくまで、信じられないような行動を取る人間のことを見聞きした人間のほうだ。けっして、正気というものの存在や価値を疑いはじめてしまった可哀そうな人間のことではない。

 

さてでも、考えてみれば正気とは疑わしいものだ。わたしたちのまわりにいるほとんどの人間は正気だけれど、べつにそのひとたちの行動のすべてが腑に落ちるわけではない。明らかにおかしな、常識に外れる行動の話はべつにして――世の中で常識的とされる行動でも、わたしたちはすべてが理解できるわけではない。というより、ちゃんと理解できる他人なんてほとんどいない。そして理解できないのにもかかわらず、わたしたちはその相手を正気だと判断する。

 

すべては理解可能だと信じるほど、わたしはもう若くない。理解できないものを理解しようという無謀な努力に身を捧げるほど、わたしにはもう気力がない。他人というものは理解できず、自分ならけっしてしないであろう行動を平気で行うということは誰もが知っている。そしてそれでも、世の中は回っている。わたしはそういう世の中を赦している。

 

言うなればわたしたちは、目の前の謎を見て見ぬふりをしている――目の前にいる相手がとっている行動がどんなに理解不能でも、常識的でさえあればそれでいいことにしている。けれどやはり目の前に謎があり、無視できない暗さの深淵を見せつけ続けてきている以上、やはり疑い続けるのが健全な態度ではなかろうか。すべての謎に答えを出せると信じた頃の情熱は、人間、持ち続けているべきではなかろうか。

 

狂気を疑うのは簡単だ。理解不能で非常識ならば、それだけで疑う理由になる。たとえば通り魔殺人と隣人愛が、かりに同じくらい理解できないものだったとしよう(実際にきっと、そう考えているひとはたくさんいる)。なんで関係ないひとを殺したんだろうと疑うのはきわめて正当な行為だし、実際に誰もが気にしている。なんで関係ないひとを愛したんだろうという問いは反面、そう普通に問われるものではない。

 

そして。後者の問いを問い続けようと志すほどの青さはもうわたしにはない。世の中にはそういうひともいるのだとみんな受け入れているし、わたしだってそれは受け入れる。けれどその問いが前者の問いと同じくらいに成立している問いであると認識することくらいは、しても罰は当たるまい。

正気の説明

「世の中で一番大きな謎とは、人間そのものである」――とある推理小説の中で、探偵の信念として繰り返し語られることばだ。ミステリの例に漏れず優秀なその探偵は数々の難事件を華麗に解決するのだけれど、やはりフィクションの天才の常として欠点があり、長年の右腕であった昔の助手がかなりあからさまな恋心を寄せているのにも関わらず、それには一切気づかなかった。ついに愛想をつかされて逃げられたのが作中舞台の十年前、だがその名探偵はいまだに、その理由が見当もつかずにいる。

 

まあ、こんな作品はない。あるかもしれないけれど、わたしは知らない。本当にちゃんとした文章を書きたいのであれば調べものをしなければいけないところだけど、たかが日記でそんなことをするつもりはない。嘘を嘘と認めたのなら白紙に戻すのが常識的な態度だけれど、まあ面倒くさいので、そういう作品があることにして話を進める。心の中の要出典マークはとりあえず、お約束なりブラウザ拡張なりで隠しておいてほしい。

 

さて。くだんの探偵の言う通り(自作自演で何が悪い)、実際に人間は謎だ。常識でも理屈でもまったく理解できないような行動を取るひとはけっこういるし、ミステリというジャンルはある意味、それを鑑賞するためのジャンルでもあるだろう。凶悪な犯罪行為という、普通に生きていたらまずしないであろう行動を取る犯人という役柄を通じて、人間の不思議さを追体験する。そういう小説もドラマもある。

 

犯人の正気の度合いはピンキリだ。経済的情緒的に困窮し、絶望的な状況に追い込まれ、否応なくひとを殺す犯人。特殊な経歴から普通でない信条を持つに至った狂信者。殺人そのものをゲームととらえ、ただみずからの欲望のままにひとを殺す、どこか吹っ切れた愉快犯。これらすべての可能性を探偵は疑い(なにせこのどれなのかは解決まで分からないのだ)、動機を推理し、犯人と犯行経緯を言い当てる。言い当てるのが探偵の仕事だ。

 

狂気をも探偵は、理解しようと試みる。それに共感はしなくとも、筋道だった理屈は与えようとする。作中の聴衆は推理を聞き、犯行のすべてを理解する。そしてその説明は同時に、そのままミステリの読者へと向けられている。狂気は狂気ゆえに、説明されねばならない――説明されなければ分からないものこそが、狂気の定義なのだから。

 

そういう意味で狂気とは逆説的に、理解するためのものなのかもしれない。ありふれていないがゆえに、理解しようと目指すものなのかもしれない。目指すことが正当化されるものなのかもしれない。その反面、正気はどうだろう。

 

話は冒頭に戻る。みずからに寄せられていた恋心という正気を、探偵は理解できなかった。数々の狂気を理解してきたのに、そればかりは誤解していた。作中では(繰り返すが、そんな作品はない)、探偵は助手のことばを頑なに冗談だと信じ続けている。そしてそれは、もっと苛烈でひとの死に至るような、そんな恋愛感情を探偵が見過ぎたからだとされている。そしてそれは、こうも言い換えられるかもしれない。

 

助手はあくまで、ずっと正気だった。そして正気とは、事件のトリックと違って、説明することを許さないものなのだ。

狂気の分析

いろいろなひとが世の中にはいる。といってもべつに、いわゆる多様性の話をしたいわけではない。性別とか人種とか経済状況とか前科とかその他あらゆる社会的属性に関する問題は……まあ、そういう活動をしているひとに任せておけばいい。わたしはただ、ひとにはひとの考え方があってそれは非常に多岐にわたるという、きわめて当たり前の話に言及したいだけだ。見て分からないせいか分類が不可能なせいか、なかなか多様性とは呼ばれないありふれた差異についてだ。

 

多様な考え方をするひとがいる以上、その中には必ず、けっして分かり合えないひとびとがいる。それは仕方のないことで、我慢強い対話とか相互理解の努力とかそういうきれいごとを並べ立てたところでとうてい解決する話ではない。事実は小説より奇なり、いくら想像をめぐらせたところで絶対に思いつけないような行動原理を持つひとはいる。それにそもそも、理解し合わねばならぬという価値観じたい、万人が持っているものでもない。

 

さて。どうやっても理解できない人間が目の前にいるとしよう。わたしたちの理屈は通用せず、同じ常識を持たず、生物学的にホモ・サピエンスであること以外の一切が理解できなさそうな人間だ。彼らはわたしたちと同じことばを話すかもしれない、けれどその受け取り方は想像もつかない。そしてわたしたちが理解できる……つまり、共通した文法構造だけは持っていることばを使って、まったく違うアイデアを披露している。彼らはわたしたちが陰謀論と呼ぶものごとを信じていたり、想像もしなかったようなことで感情のトリガーを引かれたりもする。

 

狂人。そういうひとをみて、わたしたちはそう思う。狂気が彼らを支配している。なにかは全然分からないけれどとにかくわたしたちとは全然違うことだけは間違いない論理が、きっと彼らの裡にある。そして当たり前のことだが、みずからが狂人だと自覚している狂人はいない。わたしたちの目には狂気だとうつるものは、彼らにとってはきっとまったくの正気なのだ。そして正気だと信じるそのことに基づいて、彼らは普通に行動しているにちがいないのだ。

 

だからこそ。わたしたちはその狂気を理解したいと思う。いったいなにをどう信じればあんな言動をするに至るのか、知りたいと考える。彼らをこちら側に引き戻すには、あるいは利用するにはどうすればいいか。彼らの目には、わたしたちが正気と思っているものがどんな狂気に見えているのか。

 

かくして狂気は分析の対象になる。彼らの行動が説明する論理構造、彼らのことばを真実にするための前提。わたしたちが正気と考えるものが出す結論はもしかすると、実際の彼らの精神構造とはまるで異なるかもしれない。けれど案外。うまくいったように見える説明は、作れるものだ。

 

説明ができたとき、狂気はもはや狂気でなくなる。偏執や無知や傲慢ではあるかもしれないけれど、説明がつく以上狂気だけではないのだ。狂人だと思っていたひとが理解できたように感じること、そのことには意味はないかもしれない。理解したところでやはり、いや理解したことでより一層、彼らとは絶対に接触したくなくなるかもしれない。

 

けれどとりあえず、わずかな親近感を覚えることはできる。相互理解が必ずしも必要ではない以上はきっと、その程度の自己満足で十分だろう。

非信仰告白

ありがとう、どこかの詐欺師さま。わたしなんかが、生きていける社会を作ってくださって。基礎研究が未来の役に立つと言い張ってだました投資家たちが、なんの役にも立たぬ研究に投資をしてくれる、そんな国を作ってくれて。これに投資しないと国が滅びるとか、基礎研究の価値を分からないやつは近視眼的な馬鹿だとかハッタリを言って、投資家たちがひっかかったままでいつづけるようにしてくれて。

 

本来ならわたしだってその輪に加わるべきなのかもしれません。だってわたしたち共犯でしょう。あなたがたの作ったその文化、無色を朱だと言い張るその文化のうえで、わたしはごはんを食べています。だからわたしは黙っています――わたしたちのすべてが役立たずと知ってはいながら、それが無駄な予算なのだと大っぴらに主張して、都合の悪い公正さを世にもたらそうという試みに手を付けないでいます。悪の存在を知っていて黙っているひとだって、やっぱり悪の味方なのです。

 

残念ながらわたしは、あなたの嘘を信じ切れません。優秀なペテン師であるあなたたちのことばに、身も心も奉じることができません。けれど、信じていられたのならどんなによかったかとも思います。この身を奉じられたのなら、わたしだって協力できたでしょうに。あなたがたほどに優秀で、世の中を動かして不安定な状態に固定する、そんなペテン師にわたしがなれるとはとうてい思いません。けれどそのお手伝いなら、できたかもしれないのです。アカデミアという教義の末端の信者として。科学というカミサマへの信仰をまわりのひとたちに広め、献金を募るくらいのことなら、できていたかもしれないのです。

 

わたしは不器用な人間です。本音でぶつかり合う以外に、能のない人間です。ですから確信していないことは、なかなか実行に移せません。心から信じていない考え方を、ほかのだれかに信じさせることもできません。基礎科学は役に立つという信仰を唯一の真実だと信じることのできないわたしは、だから布教に協力することができません。ほかのだれかを入信させることも、どこかのだれかに献金をせびることも、わたしにはうまくできません。

 

だからわたしは、感謝以上のことを申し上げることはできないのです。わたしを生かしてくれるあなたがたの嘘を、ただありがたく思う以上のことは。申し訳ありません、白状します。偉大なるペテン師さま、あなたがたへの感謝のしるしを差し上げたい気持ちはやまやまなのですが、いったいなにをお渡しすればいいのか、まったく見当もつかないのです。論文を書けばそれでよろしいというのでないのなら、おそらくわたしには、なにも貢献することなどできやしないのです。あなたがたの作り上げた、壮大なフィクションのカミサマへと。

詐欺師に感謝

役に立たないことばかりやり続けているわたしたち理論研究者に、国家はなぜだか予算をつける。そんなことをしても何にもならないはずなのに、なぜだかそうする。なぜそんなことをするのかという非難の多くは往々にしてそれが社会に果たしている役割を知らない部外者から発されるもので、そしてたいてい、的外れもいいところだけれど……今回に限っては、当事者であるわたしがそう言っている。だから、間違いない。

 

その奇妙な事実に、充分に満足のいく説明を与えるのは難しいだろう。事実わたし自身、わたしを納得させられるだけの理屈を見つけられてはいない。けれどまあ、子供だましの説明なら可能だ。わたしやわたしの同類を納得させられなくても、気になったことをどこまでも追及するという研究者気質を持ち合わせていないひとたちをなら、うまく言いくるめられるかもしれない説明ならば。

 

その話は昨日した。すなわち、投資である。国家という投資家はわたしたちが、将来的に大きな利益を生み出すと信じて予算をつけている。わたしたちはそれに応え、数十年後の未来に巨大な価値をもたらす。本当にもたらすのかはさておき(むろん、もたらすとはわたしにはとても思えないが)、少なくとも国はそう信じている。信じているからこそ、予算がつけられ、わたしたちが生活できる。

 

ではいったいどうして、そんな話を信じてしまうのか。いま投資をすれば莫大なリターンがありますよ、そういううまい話にはだれもが流されてしまうのか。それとも投資家たちは、わたしたちが実際になにをしているのかを理解していないのか。すぐに役に立ちそうな研究開発と、わたしたちの並べている机上の空論の区別が、単についていないだけか。研究が貴族の遊びだったころの慣習を、あるいはそのまま受け継いでいるだけなのか。

 

そのどれなのかは彼らの頭の中を覗いてみなければわからないが、すくなくともこれらには共通の真実がある。わたしたちに投資の価値があるいう嘘を投資家たちに信じ込ませただれかが、この世にいるのだ。こうして書いてみるとまるで陰謀論そのものだが、まあ実際に陰謀なのだから仕方がない。未来技術ということばに騙され、まったく知らない分野へと多額の投資をしてしまう無知蒙昧な投資家は、わざわざ理論研究の例など持ち出さなくても枚挙にいとまがない。

 

わたしたちの身分はかくして、どこかのペテン師の嘘の上に成り立っている。彼らの手口は知らないが(それが分かるならわたしが使っている)、とにかく偉大なペテン師であることには間違いない。そして彼らのおかげでわたしたちが生活できている以上、わたしは感謝せねばならない。投資家たちを騙し、社会や世論すらも騙して予算をとってきた、優秀で都合のいい詐欺師たちに。

回収不能地点にて

ずっと家にこもってペンを動かし、キーボードを叩いてわたしは生活している。ゲームと睡眠と食事と、その他文明的に生きるために不可欠なものを除けば、やっているのは研究だけだ。それも、基礎研究。なんの役にも立たないことだけをして、わたしは生きている。

 

それでも生きていけているのだから世の中とは不思議なものだ。いったい社会のどこに、わたしなんかが生活するのに必要なだけの金銭をめぐんでやる正当な理由があるのか。なにせわたしは、生産的なものはまったくなにも生み出していないのである。文字通りの机上の空論を、論文という名前でときおり電子の野に放つけれども、それは誰かの生活を豊かにするものではない。ましてや、資本主義というシステムに絡んでくる性質のものですらない。余裕がないことになっているこの世の中において、なんともまあ、不思議な話があるものだ。

 

とはいえ不思議だで終わらせるほどには、まだわたしの好奇心は衰えていない。それに金食い虫をやっていることにいまさら罪悪感を覚えるほど、わたしの正義感は強くない。幸いなことにこの世には、わたしの状況を説明することばが既にある。なんの生産性も持たないわたしが満ち足りた生活をできるという現象を、理解するための概念がある。

 

投資。インベストメント。

 

わたしたちに給料を支払ってくれる組織はたいてい国家だから、彼らを投資家と呼ぶのは一般的な用法ではない。けれどここでは、あえてそう呼ぼう。国家という投資家はわたしたちに投資をしている。いま給料として支払った金銭は、将来的な利益につながると彼らは期待している。その意味でわたしたちは、期待で飯を食っている。

 

いったいどこのどいつがそんな期待をするのか。期待される側、現場をいちばん知っている側としてはなかなか不思議なものだ。投資される側すら信じていない未来から、リターンを望むだなどとは。回収できないと分かり切っている投資のために、わざわざ財務省に頭を下げるとは。いや。こんな日記誰も読んでいないのだから、もっとあけすけに言ってしまってもかまうまい。投資家は、国は……要するに、馬鹿だ。

 

国家の中枢にいる賢いはずのひとが、そんな馬鹿な判断を現にしている。なかなか驚くべきことだけれど、起こりうることではある。どんなに賢い人間だって、集団になると馬鹿な方向に進んだりする。自分たちはとんでもなく狂ったことをやっている、誰もが内心そう気づいているのにも関わらず、集団としてはその狂った判断をし続ける。中学高校とわたしはそれなりに名の通った学校に通っていたけれど、そこでもそういうことは日常茶飯事だった。

 

だから。わたしたちが生活できている理由を知りたければまず、どうして最初にそんな狂った判断が下されたのかを知るしかあるまい。最初の投資家たちがどうして狂気に陥り、確固たる方針として受け継がれてきたのかを知るしかあるまい。その問いに関してわたしは一定の説明を与えることはできるかもしれないが……狂気を説明せよとは、なかなかにおかしな話でもある。