論理の万能性

論理的な判断とはよい判断だ、と世間ではよく言われる。直感だけで行動するひとと比べて、すべての行動に理由があるひとは将来的にはるかに大きな報酬を得られる、とひとはみな信じている。論理性への信仰とも呼べる社会現象だ。

 

だがそれは、はたしてどれくらいご利益のある信仰なのだろうか。論理的であろうと志すこととは、はたしてどれくらい、そのひとのためになる態度なのだろうか。

 

今日は、そんなことを考えてみることにしよう。

 

比較のために、まずは対極にあるものを考えてみよう。感情的な判断。後先を考えず、目先の利益だけを追い求めることだと定義されるそれは、論理信者がもっとも嫌うもののひとつだ。すこし考えれば損だと分かる選択に、どうして突き進もうとするのか――たとえばムカつく上司を殴ったり、宝くじを買ったりすることなどが、これにあたる。

 

論理信者たちはこう考える。つねに論理的でありさえすれば、こんな選択は起こりえない、と。上司といざこざがあるとしても、それは間違いなく、殴って解決する問題ではない。それなら殴るのはやめて、他の手段を考えた方がいい。宝くじを買うのは、帰り道の側溝にお札を投げ込むことや、わざわざ課税額を超えて納税するのと同じようなものだ。だからそんなものは買わず、投資信託にでも入れておいた方がいい。

 

感情は諸悪の根源だ。判断に感情が混じるからこそ、ひとは損をする。世の中のほとんどのひとは論理の神を信仰していないから、実際にそうやって損をしている。論理を信仰するわたしたちは、日頃の判断で徳を積み重ねることで、得を積み重ねることができる。最終的には、わたしたちとそれ以外の間には、巨大な利益の溝が横たわっているはずだ。

 

論理信者はそう考える。そう考えるひとを、論理信者と呼ぶことにする。

 

さて。だが論理信者の論理には、もちろん巨大な欠陥がある。それは論理が、いかなる結論でも出しえてしまうことだ。

 

上司を殴ることを正当化する論理。それは間違いなく存在する。同じ空間にいると重要な仕事が手につかないから、しかるべき機関になど頼らず、この手で今すぐに叩き出したほうがいい。あるいは、どうせ辞めるのだし、逮捕されるのも怖くないから、殴らない理由がない。不利益は承知しているが、ここで道連れにしないと、一生後悔するというより巨大な不利益を被ることになる。殴ることは論理的判断の帰結だ。じっくりと考えた結論として、席で待ち伏せして、脳天を叩き割る。

 

論理は結論を問わない。というより、出た結論は受け入れるのが論理的態度というものだ。上司を殴るという一見非合理な行動だって、うまく論理を組立てれば、いくらでも正当化できてしまう。論理的と合理的のちがいが、ここで顔を出す。

 

では、なぜそれでも論理は信仰に値するのか。

 

これまでの議論に反するようだが、それは実際のところ、論理は万能ではないからに他ならないだろう。