国家と国民への非難

罪を犯した個人が相応の非難を浴びるように、良くないなにかをやらかした国家は、当然それなりの批判を受けることになる。批判のやり方にもいろいろあって、たとえば経済制裁かもしれないし、政府の評判を下げる報道かもしれないし、場合によっては、軍事的な制裁であることもありうる。

 

批判する主体にもいろいろある。それはほかの国家かもしれない。国連などの国際機関かもしれない。あるいは国際メディアかもしれないし、単にある地域の市民全体が、なんとなくその国を嫌うのかもしれない。とにかく、誰かがどうにかして国を非難するのだ。

 

さて。だが国家なるものはきわめて曖昧だ。なんとなくわたしたちは国家に性格のようなものを想定しがちだけれども、実際のところ、国家に一貫した人格はないのだ。「アメリカはこう考えている」とか「ロシアはこういうことを企んでいる」とか言ったとき、考えたり企んだりしている主体は、アメリカそのものでもロシアそのものでもない。

 

実感しにくければ、「日本はこんな意図を持っている」で置き換えてみて欲しい。国家じたいには意図などなく、政治家同士の駆け引きとかそういうもっと複雑な問題の中で、意図のようなものが発生しているように見えるだけだとわかるはずだ。

 

だから。国家を批判するというのは、なかなかに難しいものを批判していることになるわけである。

 

もうすこし分かりやすくはなってくれないか。指をさす対象は分かりやすい方がいいから、わたしたちはそう考える。国家に人格がないとすれば、では、だれを問い詰めればいいのだろうか。

 

相手が独裁国家であれば、答えは比較的容易だ。国家と違って独裁者には人格があり、人格のある相手は適切に非難しやすい。敵は悪意の独裁者個人で、そんな奴に支配されている民衆は被害者だ……というふうに、非難すべき敵と同情すべき味方をはっきりと区別することができる。

 

相手が民主国家であれば、状況はややこしくなる。国家に人格がないように、国民にもまた人格はないからだ。国民のひとりひとりは人格を持つし、個人的に非難したり同情したりできる相手だが、国民という集団にはそうはいかない。国家の行動に反対する国民もいれば支持する国民もいて、それらを一緒くたに扱おうとしても、まず上手くはいかないだろう。

 

それでもわたしたちは、あたかも国民に人格があるかのように、こんなことを言う。「国家がこんなことをしたのは、そういう政権を選んだ国民の責任なのだ」と。

 

もちろんこの考え方では、批判の矛先はまったく明確にならない。国家というよくわからない主体の責任をそのまま、国民というよくわからない主体に横流ししているだけだからだ。人格のないなにかから、人格のないなにかへ。非難しにくいものから、非難しにくいものへ。

 

だが興味深いのは。それで本当に、国民のひとりひとりが責任を感じてしまう場合があることだ。