追憶 side: ハルカ 後編③

サロエの反応は素早かった。最初の一閃で、サロエの右腕が男の顎を砕いた。彼女はそのまま男の髪を掴み、乱暴に階段に引きずり落とした。男の身体が目の前を転がり落ち、靴が慣性のままに飛んで私の顔をかすめた。

 

続く左腕の一撃は、後ろの無防備な女の腹を貫いた。女はたっぷり五メートルほど飛ばされ、棚に激突して大きな音を立てた。

 

サロエは強かった。サロエが足を振り上げると、階段の上の男が股間を押さえてうめいた。サロエは俊敏だった、その巨体からは想像もつかないほどに。サロエのあまりの強さに委縮した少年を、彼女は容赦なく放り投げた。

 

だが、敵は多数だった。おまけに敵は上を取っていて、階段で戦うサロエと違って安定した足場があった。何人もの敵を吹き飛ばしながらも、サロエはだんだんと押されていった。股間を蹴られた男の手がサロエの足をひっかき、降り積もった埃に赤い痕を残した。

 

突然の戦いに、私は動けなかった。サロエが戦う間、私はただ階段にうずくまっていた。肉のぶつかる一音一音が私の判断力を奪い去り、敵の悲鳴の一語一語が私の心臓を引き裂いた。埃が舞い、私の眼球を静かに襲った。

 

小柄な女が狡猾な表情を浮かべ、サロエの横を抜けようと駆けた。私を狙う気だ、本能的に私はそう感じた。サロエは気づき、とっさに右手で女の足をすくいあげた。女の身体はよろめいて盛大に階下に落ち、だがその隙に、目の前の男の拳がサロエの頬を突いた。サロエはバランスを崩し、だがぎりぎりで手すりを掴んで踏みとどまった。

 

「ハルカ!」サロエが叫び、足元のランタンを蹴落とした。光が揺れ、戦いの始終をこまぎれに照らした。「中に武器がある! 取ってこい!」

 

私はランタンを掴み、夢中で階下へと駆けた。やることがあるのはありがたかった――ましてや、戦いの現場から離れられるとあれば。段差にぶつけた脛が疼き、私は転びかけた。ひときわ大きく響く肉の音に私は振り向いたが、暗闇に人影の区別はつかなかった。なんとか階下にたどり着くと、鍵は扉の前に落ちていた。

 

私は鍵を拾い、震える手で鍵穴に差し込もうとした。その時だった。悪夢のように冷たい感触が私の足首を襲った。不揃いな歯が足元でちらりと光るのを私ははっきりと見た、そして一瞬の後、私はうつぶせに引き倒された。腹が地面にたたきつけられ、胸郭に内臓が跳ねた。

 

「ハルカ!」サロエの声、だが答える余裕はなかった。太腿に生温かい感触を覚え、私はとっさに仰向けに転がった。足元を見ると、最初の男が這って近づいてきていた。その血走った目には残忍な殺意が浮かんでいた、だが殴り飛ばされた衝撃からか、その視線は宙に浮かんでいた。

 

私は両手でランタンを掴むと、精一杯の力で男の頭に打ち付けた。最初の一撃で男の動きは止まり、次の一撃で男は崩れ落ちた。自分でも驚くほど、躊躇はなかった。私は起き上がると、ほとんど本能だけで男の首を絞めた。自分のしていることは分かっていた、でも止まれなかった。男の苦悶の表情が消え、手足のじたばたが収まってなお、私は手を離さなかった。

 

両手の力が尽き、私はようやくその場にへたり込んだ。男の身体はぐったりと動かず、両腕の周りには埃を掻いた跡があった。サロエが私の名を呼んだ、だが私には他人事のように思えた。どんな光景も、どんな言葉も、いまや私の心の表面をただ曖昧に撫でるだけだった。

 

「ハルカ! おい!」何度目かに呼ばれ、私はようやく自分の使命を思い出した。そう、中に武器を取りに行くこと。上で鈍い音がして、サロエが苦悶の声を上げた。だが少なくとも、まだ戦えているようだった。

 

「今……いきます、いま、いま……」私は再びランタンを掴むと、ゆっくりと立ち上がった。亡霊のように揺れる足取りで、私は扉を通った。いまは何も考えられなくて、だから私は、鍵が開いているのを疑問に思わなかった。

 

私は呆けたようにそぞろ歩いた。武器を見つけなければ、そう告げる理性とは裏腹に、私の目はただ虚空を見つめていた。棚を埋め尽くす本にも、今の私は一切そそられなかった。

 

蜘蛛の巣に顔がかかり、だが私はそのままにした。上階の物音が、はるか遠くのことのように聞こえた。ただ両手の疲労だけが、生々しい罪の感覚をかろうじて告げ続けていた。

追憶 side: ハルカ 後編②

「着いたぞ」サロエが足を止めた。見たところそこはただの路地で、ボロボロの二階建てが立ち並んでいた。正面の建物の窓にガラスはなく、泥だらけの窓枠にはスズメバチの巣がかかっていた。もはや用をなしていない詰まった側溝からは、真新しい吐瀉物の不愉快な臭いが漂ってきた。

 

私は、《古代人》の娘だぞ。サロエに怒鳴り散らしてからずっと、私の頭には先ほどの自分の言葉がこだましていた。驚きと失望がごちゃ混ぜになったような感情だった。こんな言葉が私の口から出てくるなんて、これまで思いもしなかった――私がとっさに、母の権力をかさに着るなんて。

 

もっとも、私の一部は冷静さを取り戻していた。ここは危険だ、だから身を守らなければ。私はサロエにぴったりとついて歩いた。サロエが本当に《常夜街》の出身なのかは分からないけど、こういう場所に慣れているのは間違いなさそうだった。

 

サロエはまっすぐに目の前の建物に入っていった。あまりにも普段通りの歩調で、私は一瞬、さっきの言い合いは幻だったのではないかとまで思った。私はサロエの背中を、普段にもまして大きく感じた――彼女はまったく平静だ、私はこんなにも動揺しているのに!

 

建物内は真っ暗だった――壊れた窓から差し込むわずかな街の光を除いて。サロエはカバンからランタンを取り出すと、灯りをつけた。見たところそこは大広間で、だが限られた灯りでは端までは見渡せなかった。棚のようなものが並んでいたが、何かが収められているようには見えなかった。

 

私たちは棚の間を進んだ。サロエの光を見失わないように注意しながら、私は左右の棚をちらちらと見回した。だが、降り積もった埃と誰かの食べかす以外、何もめぼしいものはなかった。

 

暗闇を、私たちは進んだ。目の前の蜘蛛の巣を、サロエが払った。足が何か固いものを踏み、かたりと音を立てた。棚を伝う手がコウモリの死骸に当たり、足元をネズミが走った。

 

広間の奥まで進むと、地下へ向かう階段があった。降り積もる埃は一段と厚くて、私たちの足跡がはっきりと見えた。会談の先の扉には南京錠がかかっていて、サロエはカバンから鍵を取り出して錠を開けた。私は、極度に落ち着いている自分に気づいた――《常夜街》の建物、その謎の地下室に連れ込まれようとしている、なのに私の心臓は、いつもとほとんど同じリズムで脈打っていた。

 

サロエがゆっくりと扉を開けた。私はそれを、恐ろしいほどの冷静さで見た。完全な暗闇。まるで古代文明の頃から、誰も足を踏み入れていないかのような黴臭さ。ランタンの光が差し込み、埃の群れが舞い上がってきらめいた。埃の奥に棚が見えた。だがさっきまでとは違い、棚にはぎっしりと何かが詰まっていた。

 

次に見えた光景に、私は目を疑った。棚に隙間なく詰め込まれた、大量の古文書。私は近づいて背表紙の埃を払った、すると古文書はまるで昨日製本されたかのように輝いた。近くの棚に見えるシリーズは全巻揃っていた――母に連れられて行ったどの図書館でも、全く散逸がないなどありえなかった。

 

私は舞い上がって、ずっと読みたかった古文書を探した――あるシリーズの一冊で、どの図書館を探してもその巻だけは見当たらなかった。本は規則的に並んでいたから、その本はすぐに見つかった――そしてやっと、無邪気に動き回る私にサロエがずっとついてきてくれていたことに気づいた。

 

私の頭の中を、大量の疑問が駆け抜けた。どうして《常夜街》にこんなに上質な図書館が、私は言いかけて、先ほどのサロエの言葉を思い出した。ここには人がいる、生活がある。だったら、いい図書館だってあっていい。だから代わりに、私はこう尋ねた。「先生は、やはりここの出身なのですね」

 

「そうだ」ランタンの光に照らされたサロエの横顔は、心なしか笑顔に見えた。「私はこの場所で古代技術を学んだ。だから、お前たちの知らないことも知っている」

 

「どうして、出てこようと思ったんですか? こんなに素晴らしい場所があるのに」言ってから、私は自分の質問の愚かさに気づいた。この地域は、こんなに素晴らしい場所を、鍵で封じ込めておかなければいけないところ。

 

質問を後悔する私の顔を見て、サロエは悲しげに頷いた。彼女は棚に身体を向けた、ゆったりと、想いを振り払うように。「私はこの地域が好きだ。お前らが散々に言うこの土地がな。でもやっぱりお前らの言う通り、ここはクソみたいなところだ」サロエの目は何を見るでもなく、私はその中に深い諦めを感じた。

 

いたたまれなくなって、私はサロエから目をそらした。礼を言わなければ、私は直感的に思った。「ありがとうございます、この場所のすばらしさを教えてくれて」だがこの言葉は、外の騒音にかき消されて届かなかった。

 

外を、階段の上を誰かが走っていた。企むような話し声が聞こえ、私たちは我に返った。「まずい!」サロエが叫び、入口の扉に駆けた。私は持っていた本をカバンにしまうと、すぐに後を追った。二人とも外に出ると、サロエは乱暴に扉をしめ、素早く南京錠をかけた。

 

私たちは階段を駆け上がった。ランタンの光が激しく揺れ、床と天井をあべこべに照らした。サロエが急停止し、私はつんのめって段差に脛を打った。

 

サロエのランタンが、男の顔を照らした。下からの光に、その顔は幽霊のように青白く輝いていた。その後ろに、別の男女が数人。男がゆがんだ口を開き、悪夢のようなせせら笑いを浮かべて言った。

 

「お久しぶりだね、サロエ姐さん。そこに何かを隠してるんなら、俺たちにも分け与えるのが筋ってもんじゃないのかね」

追憶 side: ハルカ 後編①

《産業地区》の暑苦しい煙の臭いは消え、秋の夜の冷え込みを肌に感じた。道幅は《中央地区》ともさほど変わらなかったが、すべてが灰色に薄汚れていた。心なしか、道端の草木さえも元気なく萎れているように思えた。

 

学校を出てからここまで、サロエは一言も発しなかった。私たちはまっすぐ南に向かっていた――《影の地区》の方角へ。いったいどこへ連れていかれるのか、私は不安で仕方がなかった。だが、サロエの確固たる足取りは、すべての質問を静かに拒絶していた。

 

行先? それを知ってどうするの?

そう無慈悲に言い跳ねるように。

 

大股でずんずんと進むサロエに、私はほとんど走るような早足でついていった。せわしなく足を動かしながら、私はふと、なぜ無警戒にサロエについてきてしまったのか疑問に思った。どうして私が、こんな怖い思いを。

 

ついてくる義理はなかった。断わる意志さえあれば、たぶん断れた――嫌な予感がなかったと言えば、嘘になる。そして南に進み続けるサロエを見て、予感は次第に確信に変わった。

 

私は何度も、逃げ帰ろうかと思った。おあつらえ向きに、サロエは一切私を振り返らなかった――もしここで私がこっそり失踪しても、サロエは気づかないだろう。でも、思考とは裏腹に、私の足は南に向かって動き続けた。

 

前方でカラスの群れが飛び立ち、ゴミの欠片が散った。

 

右手の割れたガラス窓を見て、ふと私の頭に奇妙な思考が閃いた。私の孤独を、サロエは癒してくれるのかもしれない。だって、彼女は私をどこかに連れて行こうとした、唯一の人だから。

 

私は、私に語り掛けるサロエの姿を想像した。未知の古代技術について笑顔で語るサロエを。彼女の大きな顔に笑顔は全く似合わなくて、私はつい吹き出してしまった。自分の鼻息に私は我に返り、本人がすぐそこにいるのを思い出した。私は慌ててその妄想を打ち消して前を窺ったが、サロエは変わらず容赦のない大股で歩き続けていた。

 

脇道からの不気味な光が私たちを照らし、私はびくりとした。

 

何の前触れもなく、サロエは急に右折して細い路地に入った。ぼんやりと歩いていたら見逃してしまうような、一瞬の出来事だった。前方にそびえる壁の存在感からして、このあたりはもう《影の地区》だろう。もしサロエを見逃してはぐれたら、そう考えると私は心臓が握りつぶされたかのように感じた。

 

路地に入っても、サロエはまったく速度を緩めなかった。暗闇のそこかしこから、私たちへの視線を感じた。割れて放置された木箱の裏で、傲慢な猫が狡猾に鳴いた。《産業地区》の煙たさとは違う腐臭が鼻を突き、私は心細さに縮こまった。

 

薄汚れた服の少年が近づいてきて、サロエは腕の振りひとつで彼を追い払った。

 

少年は今度は私に狙いを定め、不気味なほど静かな足音で近寄ってきた。あまりの自然さに、私は声も出なかった。私の手提げかばんに少年の手が潜り込み、なにかの本が地面に散らばった。少年の手がなにかを掴み、私は身体中の水分が一度に凍り付いたように感じた。

 

「きゃっ」少年がとうに走り去ってから、つっかえていた悲鳴がようやく私の口を出た。筋肉がやっと言うことを聞き始めると、私は前を歩くサロエのもとに一目散に走った。持ち物を気にかけている余裕などなかった。

 

サロエが角を曲がるたびに、目に映る壁の威圧感が増した。私はもう限界だった、そして目の前に迫る《常夜街》そのものに比べれば、《常夜街の教師》などまったく恐れるに足らなかった。「先生」サロエにだけ聞こえるように、私は口を開いた。

 

「私、もうダメです。怖いです。これ以上進めません」堰を切ったように、私の口から言葉が流れ出た。

 

サロエは歩みを止め、気だるげに振り向いた。サロエは怪訝そうな顔をした、まるで私の恐怖がまったく理解できないかのような。

 

「なぜ、ここを怖がる」たっぷり二十秒ほど待って、サロエはようやく言った。

 

あまりの鈍さに、私は相手が《常夜街の教師》だなんてすっかり忘れてまくしたてた。「ここは《影の地区》です、それも最深部です。『行ったが最後、命はないと思え』、そう何度も言われてきました。実際、私はさっきスリに遭いました、それも堂々とした! こんなところに人が行って、無事でいられるとは思えません。学校に連れて帰ってください、人が生きられるところに! 一刻も早く!!」

 

私は踵を返しかけたが、サロエは動かなかった。私は憤った、私は《古代人》の娘だぞ! そんな仕打ちが許されるとでも思っているのか!! 私の内臓は煮えくり返り、ここがどこかも構わずに怒鳴り散らした。

 

そして、感情的になったからこそ、次のサロエの言葉は、まるで氷の錐のように、私の心にまっすぐに突き刺さった。

 

「ここが危険な理由。

お前が、ここでは人が生きていけないと思う理由。

 

それはここに、人が住んでいるからだ」

追憶 side: ハルカ 中編

「……ハルカさん?」

 

どすの効いた女性の低い声に、私ははっと目覚めた。額にじんと痛みを感じ、手でさすると机の痕がついているのが分かった。古文書を開いたまま、知らぬ間に私は寝ていたようだった。

 

目の前に立つ女性が誰だったか思い出し、私ははっとして姿勢を正した。《常夜街の教師》、サロエ。身長百八十センチはあろうかという巨体に、鋭い眼光。肉付きの良い身体は鍛えられて引き締まり、並みの男など片手で投げ飛ばしてしまえそうに見えた。長い豊かな黒髪は途中でほつれて絡まり、彼女の力強さを余計に際立てていた。

 

もっとも、恐ろしいのはその風貌だけではなかった。彼女の生誕は謎に包まれていて、《影の地区》の生まれだというのがもっぱらの噂だった――あるいは、《常夜街》の。

 

《影の地区》とは、南の壁に近い一帯のことだ。その名前は、すぐ南にそびえる壁のせいで日照時間が短いことに由来する。《影の地区》は治安の悪さで有名で、私たちは絶対に近づかないように言われていた。その《影の地区》の最奥部、世界の南東の隅に、《常夜街》はある――と、言われているが、実際に見た知り合いはいなかった。

 

サロエは自らの生誕を明かそうとはしなかったし、誰も訊こうとは思わなかった。そんな素性の怪しい女性が、私たちのいる《産業地区》で教師などをやっているのは、ひとえに彼女が技術に明るいからだ。サロエの教え方はぶっきらぼうで、皆にとってわかりやすいとはとても言えなかった。だが時折彼女は、母ですら知らない技術の話をするのだった。

 

サロエは何も言わずに私の古文書をひったくると、しげしげと眺めた。彼女がページをめくる間、私はひやひやして彼女を見つめていた――特にやましいことはなくても、それでもつい無条件に私が悪いと認めてしまうような、そんな威圧感がサロエにはあった。

 

「この数式は、どういう意味だ」古文書の一節を指し示しながら、サロエはぶっきらぼうに訊ねた。こんな風に口を利いてくるのは彼女だけだった――《古代人》の娘が相手だからといって、まったく物怖じしないのは。

 

私は指し示された部分を見た。まだ読んでいない部分だったが、何を示しているかは大まかに分かった。「レンズ同士が取るべき距離を、空気の屈折率を用いて補正した式です」私はサロエが納得する答えを出せただろうか。私は彼女の顔色を窺ったが、仏頂面は変わらなかった。

 

サロエはしばらくページをめくり続けた。教室はしんとしていて、まるで雪の降り積もる冬がここにだけ訪れたかのようだった。私の緊張の糸が切れそうになったころ、彼女は音を立てて古文書を閉じた。

 

彼女は古文書を机に置き、私をまっすぐに見据えた。鋭く冷たい眼光の裏に、何か意志のようなもの煌めくのが見えた。そしてようやく、サロエの口が動いた。

 

「今からしばらく、付き合え」

追憶 side: ハルカ 前編

正午。連時式のブザーがけたたましく鳴り響き、授業の終わりを告げた。

 

楽しい時間を一刻もムダにはしまいと、すごい勢いで少年少女たちが教室から弾け出た。その勢いはちょうど、さっきまでの授業の記憶、古代社会の技術特許権に関する退屈な話が、彼らの頭から飛び去るのと同じくらいだった。

 

私は古文書から顔を上げ、ドアに殺到する彼らをぼんやりと見ていた。彼らが急ぐのはまったく不思議ではない。ほとんどの生徒にとって、この一時間がクラスメイトたちと自由に過ごせる唯一の時間だからだ。午後からは、工場での退屈な作業が待っている。

 

ブザーから一分もたたないうちに、教室には私しかいなくなった。私はあたりを見回すと一息ついて、古文書にしおりを挟んで閉じた。数日続いた雨のあとの、よく晴れた秋の日。普段なら、まだ数人は残っておしゃべりを続けているところだけど、久々のいい天気に、みんな気分が上がっているみたいだった。

 

私はカバンから弁当箱の包みを取り出した。包みを開くと、場違いに冷たい金属の感覚が手に心地よかった。小さいころ、工場で出た端材を使って父が作ってくれた弁当箱で、その無骨な見た目が私のお気に入りだった。蓋をあけると、温野菜の鮮やかな色が目に飛び込んできた。中身は毎日、ハヤキおじさんが作ってくれていた――まだうちの工場が小さな町工場だったころから、変わらず勤めている作業員だ。

 

私は、ひとりで弁当をかきこんだ。

放課後を一緒に過ごす友達なんて、私にはいないから。

十二歳で、この学校に入ってからずっと。

  

確かに私は、社交的なほうじゃない。でも、だいたいの子は、それでも誰かと仲良くやっている。私に友達がいない理由は、それ以外にある。

 

私にしかあてはまらない理由が。

 

答え。私は、あの《古代人》、アスカの娘だから。

 

母、アスカは有名な古技術学者だ。古文書を読み漁り、まだ実現されていない古代技術を見つけて再現する。実力がものを言う世界、その中でも、母は相当のやり手らしい。「アスカさんのすごいのは、莫大な古文書の中から実現可能なものを見つけ出す嗅覚だ」――と、母を訪ねる学者たちは口々に言う。「まるで古代を生きていたかのようだ」と。これが、母が《古代人》と呼ばれる理由のひとつだ。

 

実際、母が「発見」した古代技術の数は、他の学者とは段違いらしい。そのおかげで、小さな町工場だったらしいうちの工場は、三百人もの作業員を抱える大工場へと発展したのだ。

 

一方で、母は……つまるところ、変人、として知られている。《古代人》の二つ名のもう一つの理由、それは、母の価値観が誰にも分からないことだ。

 

例えば、こんなことがあった。ある新人の作業員が、母に頼まれて図書館に古文書を取りに行った。作業員は言われた通り、正しい古文書を持ってきた。しかし、その古文書を見て、母は激怒した――あとで父から伝え聞いたところによると、図書館にはその古文書が二部あり、表紙に茶色いシミがついている方でないと母は読む気がしないらしかった。

 

また、こんなこともあった。母が「発見」した古代技術が、製品化されて発売される日。取引先も含めた記念式典の会場から、母はふいに姿を消した。

 

なんとか探し出して連れ戻すと、母はこう言った。「この機械は、古代の姿ではないの。うまくいかない部分があったから、私が勝手に修正した。でも今朝、正しいやり方が分かったの。だから、まだこれは未完成。発売は、できない」取引先の人たちは必死で母を説得しようとしたが、かなわなかった。発売は急遽取りやめになった。

 

うちの工場は大きいから、どの家庭も、何らかの形でうちと関わりを持っている。だから、ほとんどのクラスメイトの親が、私とは深くかかわらないように言っていた。権力を持った変人の娘。そんな人とは、付き合わないのが吉。

 

私は弁当を食べ終わると、また古文書を開いた。もし私が、《古代人》の娘でなかったなら、私はあの輪のどこかにいたのだろうか? 母のことは好きだ、母に渡された古文書を読み解く生活もまた。でも、もし別の人生がありえたなら?

 

近くの工場から、作業員たちの号令が聞こえた。私は孤独を我慢すべきなのだろうか? それとも、《古代人》の娘とは、恵まれない役割なのだろうか?

 

開け放されたままの教室のドアから、ひとひらの落ち葉が舞い込んできた。古文書の内容をよそに、私の頭は、鬱々とした感情にどんよりと埋め尽くされていた。

タイトル未設定

何事においても、自由度は足枷だ。

 

子供の名前を決めるのは難しい。研究テーマの策定は、研究を進めるのよりよほど大変だ。人が「何か面白いことを言って」と言ったとき、彼らは面白いことを要求するではなく、自由度の高さに相手を困らせようとしている。

 

だからほとんどの場合、順調な進捗は理詰めによってなされる。自由を捨て、必然性の連鎖に身を任せるのだ。研究には起点がある。文章が、書き出したらあとはスムーズに進むのは、書き出しがその後の文章を定めるからだ。

 

しかし、必然性で処理できないことも世の中にはある。文章のタイトルが、その一例だ。どこぞの小説投稿サイトのもはや設定の説明文と化したタイトルを除き、タイトルは内容から演繹されるものではない。タイトルは自由であり、それゆえ確信をもってタイトルを決定するのは不可能だ。

 

そのくせ、タイトルはすべてについて回る。全くの確信なしに曖昧に決められたものなのに、それでも作品を同定するキーとして用いられる。確信をもって記述した中身より、いつまでも納得できないタイトルの方が、はるかに広範囲に流布することになるのだ。

 

ペンネーム、主人公の名前。およそ固有名詞には、すべて同じことが言える。どう設定しても話に影響を与えない部分、話から影響を受けにくい部分。なのに、そのどうでもいいはずの設定こそ、最もよく目にするものだ――まるでそれが、一番重要なことのように。

 

どう決めても話に影響はしないことは、さっさと決めた方が良い。身に染みついた優柔不断を排し、前に進まねばならない。だが、もう少し悩んで決めようと思う。結局、悩んだ結果の結論だという事実が、少しばかりの納得をもたらしてくれると思うからだ。

人物設定方法

第一部として想定していた部分を書き終わった。もちろん、行きついた先は当初の想定とはだいぶ異なる――だがとりあえず、一区切りはついた。

 

さて、そろそろ登場人物の名前を決める必要がある。言及が全部「彼女」「彼」では、読者は誰のことを指しているか分からないだろう。もちろん作者には、それを分からせる義務がある。そして、なにかを区別するための最も手っ取り早い手段は、名前をつけることだ。

 

「名前を決めてから書き始めればよかったのではないか」、もちろん、それはまっとうな指摘だ。ただ、ここにも問題が発生する。現代でも過去ではないどこかを舞台とする以上、命名には、その世界の背景がかかわってくる。すなわち、一昨日語ったのと同様に、書き始めなければ名づけられないのだ。

 

名前だけではない。性格、容姿、その他さまざまなことに、おなじ問題が発生する。小説のプロトタイプにおいて、未設定は避けられない。特に性格について、おそらく事前の決定は不可能だ――登場人物を定義するのは、性格を表す汎用的な言葉ではないから。

 

とはいえ、十七話三万字以上を書けば、そろそろ設定が見えてくるはずである。だからそろそろ、設定を真面目にやるべき時だ。納得のいく設定をしたいから、しばらく話は進めないことにする。なんなら書き直してみてもよいかもしれない――もしこれをどこかに投稿することがあるなら、書き直しは必須だからだ。

 

明日から何を書くかは未定だが、そろそろ日記らしい日記をしても良いだろう。以前にリストアップした案があるから、やる気さえあれば困ることはないだろう。