第十七話

一夜明けると、私の頭にはいくつかのアイデアが整っていた。久々に刺激のある一日を過ごしたせいか、疲れは抜けきらなくても頭脳は明晰だった。

 

壁の向こうの文明と戦って勝つ、そんな手段はもちろん、一夜で思いつけるわけはなかった。ましてや、敵が、壁を越えてものを飛ばせるほどの技術を持っているとあらば。私は古文書の記憶を漁ったが、技術どうしの戦いの記述にはついに思い当たらなかった。

 

だが、だからと言って、できることはあった。この場所には改善できる点が山ほどあった――例えば、見張り。人が槍を抱えて二列で立ち続ける、というのは、侵入者への警戒手段としてあまりにお粗末すぎた。壁の別の場所にも穴が空く可能性を考えれば、一箇所に労力を割きすぎだ。

 

私は杭を、できるだけ等間隔に壁の割れ目に打ち付けた。この場所は、杭やロープには事欠かなかった。訓練施設の子供たち、未来の登攀者たちが、私の作業を手伝ってくれた。幼いながら彼らはこの手の作業に慣れていて、すぐに私はただ指示を出しているだけでよいと気づいた。

 

杭を打つ作業を子供たちに任せて、私は買い出しに出た。いまは攻撃は止まっていたが、念のため一人の青年が付き添ってくれた。彼は訓練の最終クラスに所属するひとりだそうで、宿営地でもひときわ大柄で目立っていた。

 

このような先の見えない状況でも、彼は底なしに明るかった。右も左も分からない私に、宿営地で最初に声をかけてくれたのが彼だった。工場にも図書館でも全く見たことのないほどの暑苦しさに私は困惑したが、決して悪い人ではなかった。欠点と言えば、何をするにも力の加減を知らないことで、「よろしく」と差し出された手を握ると、私の手の骨がバキバキと音を立てた。

 

私たちはそう遠くない部品屋へと向かうと、簡単なセンサーをいくつか購入した。訓練施設に戻ると、私はブザー付きの振動センサーを杭に取り付けた。これで、別の場所からの侵入の予兆には気づくことができる。

 

すでに空いている穴の中にはロープを張り巡らせ、圧力センサーを置いた。センサーをブザーにつなぎ、同時に、ロープを網につないだ。ロープを引くと穴の中に網がかぶさることを確認し、私は満足した。原始的な罠、もはや技術とさえ呼べないような。それでも、大人数で見張り続けるよりははるかにマシに思えた。

 

私を連れてきた彼女の姿が見えず、私は教官に質問してみた。「上で見張りをしている」、そう教官は答えた。「また壁を登ったのですか」と私が聞くと、教官は彼女が壁の内部に梯子を発見したと教えてくれた。「あとで君も登ってみるか?」完全な親切心から教官は言ったが、私は数百メートルを落ちる危険を冒すのはごめんだった。

 

訓練施設の少年が一人、ボトルを数本抱えて壁の穴に向かっていった。見張りがいるのとは別の穴で、向こう側は見えていなかった。どうやらその穴の中に梯子があるようで、上に物資を届けに行くのが彼の仕事なようだった。

 

私は思い立ち、次の配達のときに私に声をかけるように彼に言った。私は再び、例の力の加減を知らない青年に頼んで買い出しに行った。私は足に疲労を感じたが、彼はとことん元気だった。初めて見る部品たちに興奮して商品を壊しまくる彼を横目に、私はウインチ用の滑車のうち、なるべく軽いものを選んだ。

 

訓練施設に戻ると、私は滑車に細めのロープを巻き付けた。重いものを持ち上げるときに、工場で重宝していた機械。今回持ち上げるものは工場でのものよりだいぶ軽いが、代わりに高度ははるかに高い。届け屋の少年が再び来ると、私はその機械を上に持っていくよう頼んだ。二十キロを超えるその機械を持たせるのに抵抗はあった。だが幸いなことに、梯子を何往復もするほうが嫌だという点において、私と彼は同意見だった。

 

突然、壁のブザーが鳴りだした――北から南の順に、少しの間をおいて。教官たちが厳戒態勢に入ったが、何も起こらないうちにブザーは鳴りやんだ。私はセンサーを点検したが問題はなく、攻撃以外の目的のなんらかの振動を感知したと結論付けた。

 

ロープの先がおろされてきた。水のボトルと食料のほかに、私は望遠鏡を入れた籠をくくり付けた。低倍率だが軽い、市販の手持ちのやつを――残念ながら、私の望遠鏡はすこし大きすぎるから。一連の仕事を終えるとすっかり日は暮れていて、私はくたくただった。

 

今日のところ、攻撃の気配はなかった。見張りに出ていた彼女が降りてきて、私たちは一緒に宿営地に向かった。二人とも疲れていて、私たちは一言も交わさなかった。傍らを歩く彼女を見ながら、私はふと、彼女のことをほとんど知らないと気づいた。

 

夕食を摂ると、私はベッドに直行した。疲れていたが、私は眠れなかった。宿営地の固いベッドの上で、私の頭には、消えない思考がぐるぐると渦巻いていた。私は役に立っているだろうか? 私は、ここにいるべきなのだろうか?

 

私の工夫で、確かにここの人たちは動きやすくなるはずだ。その点では、私は役に立った。それに、ここでの仕事は充実していた。技術的には普段よりはるかに簡単な仕事、でも、自分で考えて動く高揚があった。

 

でも、それだけ。

 

私には、勝つための技術が求められていた――だから私は、呼ばれてきた。でも、そんな技術を私は知らない――この世界には、たぶんない。

 

私は両親を思い出した。学者だった母、職人だった父。今日のような工夫を父は誰よりも重視していて、そのために作業員たちから慕われていた。私は父のようでありたいと常々思っていた――でも、私に求められているのは、母の役割。

 

母ならどうするだろうか? 私は考えたが、記憶の中の母は動き出してはくれなかった。私はふと、母はあくまで、作れると思ったものを作っていただけだと気づいた――作らなければいけないものではなく。

 

つまり、私は、母ですらしなかったことをしようとしている。

 

壮大を通り越して、それはもはや馬鹿馬鹿しくさえ思えた。私は途方に暮れた。春の夜に、聞いたことのない虫の声がいつまでも響き渡っていた。

物語の局所性

今日は小説はお休みにする。

 

話の流れは、当初の予定とは大きく変わっている。物語には局所的な要請があり、その要請には素直に従わなければならないからだ。

 

物語の各部分は、それほど自由ではない。物語のどの部分でも、登場人物は各々の行動原理に従わねばならず、物語は予定の方向にまっすぐには進まない。物語のどの部分も退屈であってはならず、どの部分にも危機が必要になる。すなわち、物語は順調に進んではならない。

 

もちろん、物語には大域的な要請もある。大域的な要請とは、すなわち、テーマであり、最後に何が明かされるかだ。クライマックスに至る流れは、曖昧には定めてある。だが、その通りに行くかは、書いてみなければ分からない。

 

結局のところ、執筆とはほとんど局所的な作業である。これはある意味では、恐怖だ――局所的要請に従い続けた結果、物語が詰んでしまうという。主人公たちの問題は、作者ですら物語化不能なものにまで膨らんでしまう可能性がある。

 

だが執筆の局所性は、同時に救済でもある。局所的要請に従い続ける限り、執筆は、ある種の必然の流れのもとに進められる。現在のシーンがあれば、次のシーンのために発想の飛躍は不要だ――主人公たちの行動原理と、物語の向かうべき方向を、単に照らし合わせればよい。

 

もちろん、局所性に従い続けるだけの執筆には問題がある。だがそれはおそらく致命的な問題ではない――大域性の喪失ではない。これは非常に技術的な問題だ――物語には伏線が必要だが、未来が定まっていなければ伏線は張れない。

 

技術的には、時系列順の執筆は矛盾している。書かなければ未来が定まらないのに、書く前に未来を記述する必要がある。だから、健全な執筆の作業は、何度か前に戻って書き直すことになる。この意味で、連載とは矛盾だ。しかし同時に、そうでもしなければ書き続けられないという確信もある。

 

結局、執筆は分かりやすい作業だ。執筆には要請があり、恐怖がある。問題があり、矛盾もある。だが、すべては、書き続けることでしか解決しない。だから、すべてを無視して書き続けるしかない。

 

私は信じる、少しでも大域性を意識すれば、局所性の連鎖が全体の流れを生み出すことを。私は信じる、世界を調整できるという作者の特権性が、主人公たちがあるべき結末を迎えるための強力な武器となることを。私は信じる、戻って伏線を張りなおすだけの余裕を、再構成の機会を。

 

というわけで、明日からもまた書き続ける予定である。結局作者とは、物語の必然性に忠実であり続けるしかないのだから。

第十六話

彼女の行動は速かった。「アタシの後ろについて!」彼女は言うと、黒い塊の飛んでくる壁の方にまっすぐに向き直った。従うかどうか考える暇もなく、私は彼女の言うままにした。

 

「右!」彼女が叫び、右に数歩走った。私も遅れて走り、そして一瞬ののち、さっきまで立っていた地面を金属の塊がえぐった。全身の血の気が引いた。一刻も早く、私はこの場所から逃げたかった。

 

再び民家に塊が落ち、屋根瓦の割れる音が聞こえた。そこかしこで人が逃げ惑っていたが、どこへ逃げればいいか誰も分かっていない様子だった。最初に壊れた家にいた女性がパニックを起こし、言葉にならない絶叫を上げながら同じ場所をぐるぐると走り回っていた。

 

あたりは地獄絵図だった。動けなくなった子供を抱えた親が塀のかげに隠れ、そしてその塀を塊が貫いた。下水管が破裂し、側溝から泥水が噴き出した。「左!」ほとんど本能だけで私は従い、前方から走ってきていた男の背中に塊が命中した。男の上半身だけが吹き飛び、肉の塊が私の頬をかすめた。悲鳴を上げて前を見ると、前に立つ彼女の髪は真っ赤に染まっていた。

 

私は早く壁から遠ざかりたかったが、あろうことか、彼女はじりじりと前進していた。「どこへ行くの」私はおそるおそる彼女の肩をつつき、訊ねた。「逃げなきゃ」

 

彼女は質問には答えず、代わりにまっすぐに前を指さした。彼女の髪から血が滴り、地面に赤い染みを増やした。「さっきの見たでしょ。背中を向けちゃダメ。しっかり見てさえいれば、よけられるから」

 

なぜ前に進むのかは分からなかったが、少なくとも、冷静なのは彼女だけだった。私は望遠鏡で見た彼女の姿を思い出した。最初は壁の上を走っていた彼女は、再び望遠鏡を覗くと、その場に立ち止まっていたのだった。

 

私は腑に落ちた――彼女はこれを、一度経験している。

ひとりきりで思いついて。

 

彼女に従う以外に策はなく、私は一緒に進んだ。「右!」無人の露店が潰れ、野菜が転がり出た。「左!」血だまりに足を突っ込んだが、彼女は一向に構わなかった。「右!」「左!」私たちはジグザグに進み、いつしか周りに人はいなくなっていた。

 

壁がだんだんと迫ってきて、望遠鏡で見た足場が見えた。その右に例の穴が見えた。穴の両脇には今も人が並んでいたが、望遠鏡から見た時と違って列は乱れていた。皆疲れている様子だった。目の前で何かが翻り、私は身構えたが、風に吹かれた落ち葉が飛んだだけだった。

 

「どうにかできそう?」彼女の突然の質問に、私はうろたえた。「え?」

 

金属塊がはるか後ろに落ちた。彼女は初めて振り返り、血に濡れた短髪が陽光にきらめいた。「向こうの奴らに、アタシたちに手出しすると痛い目に遭うって思わせなきゃ。そのためには、アンタの技術が希望なの。あんなにすごい機械を作れる人間を、アタシはアンタしか知らないから」

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

地面にあいた穴が、この場所も安全ではないと物語っていた。訓練施設の寮と思わしき建物があったが、入るわけにはいかなかった――いつ何が飛んでくるかわかったものではない。

 

だから、訓練施設の教官を名乗る男と、私は屋外で話すことになった。「こんな場所ですまないね。せめて椅子くらいは出してあげたかったのだけれど」私が来るまでは穴の見張りをしていたようで、軽快な口調とは裏腹に表情は疲れ果てていた。椅子に座りたいのは彼自身、私はそう感じた。

 

「お気になさらず」私は答え、切り出した。「壁の向こうの人が穴をあけた、来る途中にそう聞きました」

 

「そうだ。穴が空いて人が来て、それを俺たちは……何でもない」教官はきまり悪そうに頭を掻いた。頭上を何かが飛び、私たちは見上げた。「まあ多分、あいつから聞いたよな」

 

私は頷いた。「聞きました。だから、勝たないといけない、って」

 

教官は頭に手をあて、しばらく考えた。そして私に背を向け、すぐ近くの壁を眺めて呟いた。「勝たないといけない、か……」向き直ることもなく、教官は平坦な口調で訊ねた。「どうだ、率直に言って、君の知ってる技術で勝てると思うか」

 

私は正直に答えた。「厳しいと思います。私たちには、壁を越えて物を飛ばす技術はありません。向こうの技術は、私たちより進んでいるのだと思います」私は言ってから、そんな技術は古文書ですら見たことがないと気づいた。

 

「だよな」私の答えを予想していたかのように、教官は言った。「遠路はるばる、すまなかったね。北の方の壁のそばに仮の宿営地があるから、今日はそこで休んでいきなさい。壁のすぐそばならものは飛んでこないし、見張りは立ててあるから安全なはずだ。少なくとも、この辺りでは一番な」

 

教官は穴の見張りに戻りかけたが、振り向いて付け加えた。「何か思いついたらすぐに教えてくれ。俺はもう少し、粘ってみることにするよ」

 

私は教官と別れ、壁沿いを北に歩き始めた。今日一日の疲れがどっと出た――こんなに動いたのは、両親の工場が焼けた日以来だった。それでも私は、教官が去り際に残した独り言を聞き逃さなかった――「これが、栄誉……そうだな、栄誉、なのかもしれないな」

第十五話

「あっちに走って!」思わぬ方向からの声に見上げると、彼女は隣家の屋根の上に立っていた。下には作業員たちの人だかりができていて、彼女をどうやって引きずりおろしたものか相談していた。

 

言われたとおり、私は裏路地に入った。何年もここに住んでいるのに、入ったことのない路地だった。あとから、数人の作業員が追いかけてきた。行き止まりだったらどうしよう、そう思ってあたりを見回したところで、次の指示が飛んできた。「次の角を右!」

 

私は走った。問題は、追いかける作業員にも指示が聞こえていることだった。私の体力では、このままだと追いつかれる。息が上がり、足音が近づいてきた。若い作業員の規則正しい呼吸が、はっきりと聞こえてきた。

 

私の背中を誰かの手がかすめ、上着の端を掴んだ。急な力に私はバランスを崩し、とっさに右手が後ろに動いた。捕まった、そう思ったが、代わりに聞こえてきたのは男のうめき声だった。私の肘に残る柔らかい感触に、私の肘が彼の腹に入ったのだと気づいた――ごめん。つぶやいて、私は走り出そうとしたが、追っ手はすぐそこまで近づいてきていた。

 

何かが上を飛び、そして着地点から声が聞こえてきた。「次を右!」私は曲がったが、もう体力は限界だった。それでも私は走り、そしてこの先は大通りだと気づいた。追っ手を撒こうにも、そんな見通しのいいところを通るわけにはいかない。こっちはダメ、私がそう叫ぼうとしたとき、私の右手が乱暴に引っ張られた。

 

捕まった、私はそう思った。隣の庭に積まれたごみからタールの臭いがした。だが、次の瞬間、私の身体は重力に逆らって浮き上がった――彼女の背中の上で。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

振り返ると、作業員たちが転んでいた。彼女が知らぬ間に道にロープを張っていて、それに引っかかったようだ。みんな思い思いの場所を抑えてうずくまっていて、私は少し申し訳なくなった。

 

私をおんぶしながら、彼女は屋根を縦横無尽に駆けた。けがをした作業員たちが平地を走るよりも彼女は速くて、すぐに追っ手はいなくなった。路地からは死角になる平屋の屋上で、私たちは一息ついた。

 

「……ごめん……なくて」すぐにベランダから跳べなかったことを私は謝ろうとしたが、息が続かなかった。彼女の目は真剣なままだった。「無理にしゃべらないで」たしなめる彼女の声は鋭く冷徹で、激しい運動のあとだなんて微塵も感じさせなかった。

 

私の息が落ち着くのを待って、私たちは下に降りて歩き出した。彼女の早足は、歩いているというより、むしろ走り出さないようにどうにか気を付けている風に見えた。ついていくだけで精一杯だったが、それでも私には訊ねたいことがいくつもあった。

 

「いったい……壁には何が起こったの」呼吸の合間に、私は訊ねた。

 

「見た通り。穴が空いて、向こうとつながった」前を見据えたまま、彼女は答えた。

 

「空いた? 空けたんじゃ……なくて?」言葉尻がひっかかり、私は訊いてみた。

 

「そう。向こうから、穴が空いた。たぶん、向こうの人たちは、こっちに来るつもり」彼女の首に一筋の汗が流れた。

 

「待って……壁の向こうに人が?」あまりに急な話で、私はうまく呑み込めなかった。『壁の向こうの世界で……』――これはおとぎ話の書き出しだ。そんなものが現実にあるの? 向こうに地面こそあっても、人がいるとは信じられなかった。

 

「上から見た。向こうに人はいるし、アタシたちのと同じような街もある」動揺する私と打って変わって、彼女は平然としていた。「そして多分、アタシたちに気づいてる」

 

にわかには信じられなかったが、信じないわけにもいかなかった。「すでに誰か……来てるの?」代わりに私は訊ねて、望遠鏡から見えた地面の赤い染みを思い出した。父の昔話。私の額を冷汗が流れた。「もしかして……殺した?」

 

彼女は頷き、切り出した。「勝たないと。アタシたちは身体は強いけど、多分それだけじゃ勝てない。でも、アンタのところの技術があれば、どうにかなるかもと思った」

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

私たちは道を急いだ。聞けば聞くほど、勝てる戦いには思えなかった。話によれば、向こうは、壁の上にまで何かを飛ばす技術を持っている。そして、その技術は、壁の上にいる少女を狙えるほど精密。より恐ろしいことに、彼女の話は完璧につじつまが合っていた――あの日望遠鏡で見た出来事と。

 

「現地を見るまで分からない」、私は自分に言い聞かせるかのように彼女に言った。もしかしたら、戦わずに済むかもしれない。実はその筒とやらは古代文明の遺構で、向こうの人は原理を分かっていないかもしれない。どれも現実的とは言い難いが、そもそもこの状況自体、とても現実的ではなかった。

 

もはや彼女は歩いてはいなかった。私は懸命に走ったが、どんどん引き離された。私はふと、この場所の雰囲気が工場の周りと違うことに気づいた。建物の屋根は低く、家の庭は広かった。道のそこらじゅうに雑草が生えていた。足元を走るネズミに、私は驚いて転びかけた。私は急に心細くなった――ここではぐれたら、私は二度と帰れない気がした。

 

「ちょっと待って」走る彼女を私が三度目に引き留めたとき、右手で何かが崩れる音がした。何かが落ちてきて、私の腿をかすめて切り傷を作った。見ると、右手の建物の屋根が大きく潰れていた。「逃げて!」彼女の叫び声が聞こえ、私は左手の空地へと走った。

 

彼女が私に追いつき、空地で私たちは立ち止まった。私たちは振り返り――そして、はっきりと見た。

空を切り裂き、何か黒光りするものが飛んでくるのを。

私たちははっきりと聞いた。

轟音を上げるそれが、民家の屋根を貫通する破壊音を。そこかしこで上がる悲鳴を。

 

 

第十四話

「壁の方を見て。この前見た方の」彼女に言われるがままに、私は望遠鏡を回した。階下では店番のおじさんが何やら叫んでいたが、彼女は全く気にもかけなかった。聞きたいことは山ほどあった――今何をしようとしているのか、どうやって戻ってきたのか。だが彼女の急ぎようを見るに、今はそのときではないようだった。

 

一週間ぶりだったが、操作は身体に染み込んでいた。私は接眼レンズを覗きこみ、いくつものネジを素早く回した。私は壁の上部にピントを合わせた。

 

「見えたよ」私は振り返った。

 

「で? どう?」彼女の手が私の肩を掴んだ。その力が思いのほか強くて、私はびくりとした。

 

「上の方、けっこう崩れてるね」努めて客観的に、私は答えた。一週間前に見ていた景色だったが、崩れる現場を見ていたとは知られたくなかった。

 

「違う、もっと下を見て」彼女はもどかしげに急き立て、荒い息が私の首筋を包んだ。

 

私は視界を下に動かし、そしてそれを見た瞬間、私は絶句した。壁の下部、ほとんど地面に近い部分に大きな穴が空いていて、奥からは光が漏れ出していた。穴の両脇には、槍のようなものを持った人が二列に並んでいた。

 

「穴が空いてる……?」私は混乱して、こう言うのがやっとだった。なぜこうなったのかも、これが何を意味するのかも、全く見当がつかなかった。

 

「何が起こったの?」レンズを覗いたまま私は説明を求めたが、彼女は上の空だった。「あれを止めて」どういうこと?

 

現状をもう少しよく確認しようと、私はより念入りにレンズの中を見た。穴はやや縦長で、大人ふたりぶんくらいの高さがあった。穴の脇に並ぶ人たちの視線はまっすぐに穴を見定めていて、望遠鏡越しにも緊迫感が伝わってきた。穴の中で何かが動いたように見えたが、それが何かはよくわからなかった。

 

すぐ下の地面を見ると、赤い痕があった。血、私はとっさにそう思った、でも誰の? 私は父がよく語ってくれた昔話を思い出した――古代文明人の生き残りからの使者をそうと知らず殺してしまった村が、一夜にして全滅する話を。

 

「壁をふさぐ方法を教えて」私の肩に置かれた彼女の手は、心なしか震えていた。いまだ状況は全く飲み込めなかったが、私は彼女の力になるべきだと思った。あのとき、彼女が壁の上で私の助けなど必要としていなかったとしても、それでも私は彼女を見捨てた罪を償いたかった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

私たちは現地に向かうことにした。望遠鏡で見るだけでは分からないことが多すぎた。なにより、まず彼女に説明を聞く必要があり、それは部屋ではできなさそうだった――階下では、彼女を捕まえようと店番のおじさんが人手を集めていた。

 

私が現地に行こうと言った瞬間、彼女はベランダから勢いよく地面へと跳んだ。着地を華麗に決めると彼女は手招きし、工場の裏手へと走っていった。「逃げたぞ! 追え!」着地の音に、階下から野太い声がした。

 

私はベランダから下を見て、彼女のように跳ぶべきかどうか一瞬考えた。落ちて死ぬ高さではないが、やはり怖かった。代わりに私は、本を両手に立ち尽くす彼に、裏口への経路が通れそうか見てきてくれるように頼んだ。彼はようやく我にかえり、忍び足で階段を降りていった。

 

「いけそうです」彼が戻ってきて、小声で告げた。私は階段の上に立つと、左右を見回した。私は極力足音を抑えて階段を降り、だが作業員のひとりに見られていた。「待て! 説明しろ」作業員が階段へと向かってきて、私は急いで引き返した。「ほらお前も! 捕まえろ」本を持つ彼に作業員が叫んだ。彼は迷うような動きで私を捕まえようとしたが、あまりに緩慢だった。

 

彼につかまる気はしなかったが、結局逃げ場はひとつしかなかった。私は観念すると、ベランダの柵を乗り越え、そのまま地面に跳んだ。

 

第十三話

この一週間、私はほとんど何もする気が起きなかった。

 

腰はすっかり治っていた。まだできることもあった――私の頭には、さらに高倍率な望遠鏡に関する古文書の記述が一言一句刻み込まれていた。それでも、望遠鏡の部品を少しでも触った瞬間、あの日の記憶が呼び覚まされるのだった。

 

私は、彼女を裏切った。

 

望遠鏡を覗いて、誰もいない壁の上が見えるのが怖かった。確かに私に責任はない、でも彼女を見殺しにしたのは事実だった。望遠鏡の精度を上げた先にあるのは、ただ知らなければ幸せなことを知ってしまう未来だとしたら? 私には、改善を続ける自信がなかった。

 

親方に指示された仕事をしているときは比較的楽だった。何も考えなくていいから。指示された仕事の効率はむしろ上がっていて、親方は「最近変わったな」と私を褒めた。私はむっとしたが、また同時に、この扱いも悪くないと感じていた。このとき初めて、望遠鏡への情熱は親方への反抗の意味もあったのだと私は気づいた。

 

望遠鏡なんかやめて、ただの作業員として生きていこうかしら。

私は意外と、悪くない働き手だし。

 

目先の気がかりは、あの新任の作業員だった。私の望遠鏡に興味を示してくれていた彼。彼は、明らかに、私の存在は望遠鏡のためだけにあるとでも思っているようだった。ある意味ありがたいことだったが、今はその視線が一番つらかった。

 

「新しいプリズム、感触はどうですか?」外で彼の声がした。あの日の朝に注文したパーツで、普段なら私は当然すべてを試し終えて、新しく発生した問題点と解決策をまとめ上げている頃だった。

 

「まだ試せてないわ。ちょっと事情が変わったの」嘘にならないように、私は注意深く言葉を選んだ。

 

「事情って?」彼は無邪気に訊ねた。

 

「君にはまだ分からないかな」罪悪感。普段はこんな、はぐらかすようなことはしないのだけれど。

 

「何を勉強すれば分かりますか?」難しい古技術の話だと彼は思ってくれたようだった。私は母が見せてくれた古文書を思い出して、適当に書名を挙げた。直接関係しない話に持っていけるのは気分が良かった。「『現代光学応用論』はもう読んだ? あっ、新しい方ね。昔の人は何でも『現代』って題名をつけるから分かりにくいわよね」

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

階段を駆ける音をバックに、彼の声が飛び込んできた。「ちょっといいですか」私は図面を引く手を止め、「何?」と返した。

 

要件の見当はついていた。彼がドアを勢いよくあけ、私の目の前に現れた。彼は両手に古ぼけた本を抱えて立っていた。その姿があまりに思った通りだったから、私は思わず笑いだしてしまった。久々の笑いだった。

 

「『現代光学応用論』、どっちが新しい方でしょうか」彼は大真面目だった。

 

私は、古文書の書かれた時期の見分け方について彼に教えてあげることにした。こんな時でも、話相手がいるのは嬉しいことだった。「まず、製本の歴史から説明するね」私は話し出した。

 

そのときだった。階下で扉をたたく音がして、高くてよく通る声が聞こえてきた。「すみませーん」

 

私はこの声に聞き覚えがあった――聞き覚えがあるどころではなかった。「お嬢ちゃん、今日はもう閉店だよ」店番のおじさんが答えた。「用はお店じゃなくて」間違いない、登攀者の彼女。

 

「じゃあなおさら、ここには入れられないね」おじさんの声。「この工場には見せられない秘密がたくさんあるから」私は製本の歴史について説明しながら、何も考えずに全部見せてしまった私の無防備さに赤面した。慌てて私は彼の顔色を窺ったが、私の動揺には気づいていないようだった。

 

「お宅の二階に、ものがよく見える筒がありますよね」彼女は食い下がった。おじさんの声が真剣になった。「なぜそれを知っている?」

 

私は努めて無視して、説明を続けた。彼女には合わせる顔がなかった。「さあ、どう思います?」彼女は挑発し、おじさんはまごついた。「親方、ちょっと来てください」

 

「そっちがその気なら」彼女は啖呵を切り、足音が私の部屋の下に近づいてきた。「何をするつもりだ」おじさんは精一杯の威厳を保とうとしたが、狼狽が声に現れていた。

 

「あの……」私の説明を聞いていた彼が切り出した。「大丈夫でしょうか」まったく大丈夫ではなくて、私は返答に困った。彼が怪訝な顔をした。私は説明を切り上げて彼女に会うべきかどうか逡巡した。

 

でも、結論を出せるほどの時間はなかった。私が覚悟を決めるよりも早く、ベランダの柵が軋み、開け放たれた窓から彼女が勢いよく部屋に飛び込んできた。

第十二話

真っ暗闇。アタシは叫び続けたが、反応はなかった。

 

たった数メートルの壁。この向こうは、見慣れた訓練施設。でも、その数メートルを超える大変さを、アタシたちは誰よりもよく知っていた。そしてその大変さはいま、アタシの生死の問題だった。

 

ちゃんと考えなきゃ。すぐ近くに、戻るべき場所があるんだから。

 

アタシは訓練を思い出した。初めての日の全能感と、パンパンに腫れあがった両腕を。教官の怒声を、昇級の時の賞賛の声を。仲間と疎遠になったことを、お兄ちゃんとの別れを。そのどれもが、すぐ近くにある――でも、何も見えない。

 

アタシは思いに耽るときの癖で、何気なくポーチの中をまさぐった。この癖のせいで、アタシはよく教官に怒られていた――話を聞いていないのがバレバレだったから。暗闇の中だから、教官の姿が余計にありありと思いだされた。何も入っていないポーチを執拗に検査し続けた教官を思い出して、アタシはくすりとした。

 

紙のような感触に、アタシはようやく、これが自分のポーチではないと思い出した。よく触って確かめようと、アタシはそれを取り出した。触った限りそれは四つ折りの紙で、それ以上のことは分からなかった。何かが書いてあるとしても、暗くてとても読めない。

 

アタシはさらにポーチを探ったが、何も残ってはいなかった。つまりお兄ちゃんは、この紙だけを持って登ったことになる。お兄ちゃんは、理由もなく何かをポーチに入れっぱなしにするような人ではない。だから、この紙は、何か大事なもの。

 

でも、なんだろう。

思い出の品? かもしれない。でも、なにを?

 

アタシはふと、望遠鏡の彼女を思い出した。そうだ、写真。

もし、お兄ちゃんもカメラを持っていたとしたら?

アタシは写真が、壁の向こうにアタシたちの世界を伝えるのにも使えると気づいた。

 

でもそれなら、壁の上に残しては行かないはずだ。それじゃあ、誰にも伝えられないじゃない。

 

そう、誰にも。だから、違う。

誰にも。

誰にも?

 

アタシの頭に天啓が降り注いだ。突然すべてが繋がり、アタシは興奮に叫びかけた。アタシに伝わる。あそこに置いておけば、次の登攀者に伝わる。

 

アタシは梯子のたもとを探った。ほどなくして足先が何かに当たり、アタシは興奮して拾い上げた。間違いない。これは、ペンだ。あの紙は、アタシへの手紙。

 

問題は、どうやって読むかだった。さっきの光が再び閃けば、一瞬の灯りは確保できるかもしれない。だが、一瞬で読める手紙かは分からないし、目が慣れるとも思えない。何より、あの光が次いつ閃くかも分からない。

 

それよりも、もっと確実な方法があった。間違いなく大変、でもやるしかなかった。これだけが手がかりだから。アタシは気合を入れ、梯子を掴むと、背中の痛みをこらえて身体を持ち上げた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

一段ごとに、背中が疼いた。それでも、アタシは登った。壁の割れ目を探しながら登るより、梯子ははるかに簡単なはずだった――それでも、汗ばむ両手に、アタシは何度も手を滑らせかけた。

 

下が見えない梯子を登るのは、壁の外側を登るよりもよほど怖かった。でも、終わりがあると知っているぶん、降りてきた時よりはマシだった。

 

背中の痛みに、アタシは何度もあきらめかけた。あのまま、誰かが気づいてくれるのを待った方がよかったんじゃないか。そもそも、大したことは書かれていないんじゃないか。アタシは何度も後悔した。でも、後には引けなかった。選択肢は、登るか、降りるか。そして、降りるのもまた大変だった。

 

もう何度後悔したか分からない頃、上から一筋の光が降ってくるのが分かった。希望の光、とはこのときのためにある言葉だった。はやる気持ちを抑えてもう少し登ると、アタシは左手で手紙を取り出し、目の前に広げた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

絶望、とはこのときのためにある言葉だった。

この手紙には、ううん。

この紙には、何も書かれていなかった。

 

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もはや希望は残されていなかった。アタシは不思議と落ち着いていた。アタシはこの紙を握りつぶして捨てるべきだ、そう考える自分を、もう一人のアタシが冷静に見つめていた。アタシは紙を念入りに丸めて投げ捨てると、再び登りだした――希望のためにではなく、単に座れる場所を確保するために。あの筒が再びアタシを狙ってきたとしても、もうどうでもよかった。

 

ほどなくして、壁の上についた。外の昼はあまりに明るくて、アタシはここで死ぬなら本望だと思った。アタシは寝そべって、でも目は見開いたままにした。眩しさに、目が潰れてくれればとも思った。轟音がして、開けっ放しの口に土埃の味がした。

 

目が慣れると、アタシは壁のふちに腰掛けた。真下に何かが動くのが見え、アタシは訓練の様子だと思った。みんな何も知らずに汗を流す。登った先は、こんななのに。アタシは可笑しくなって、近くに落ちていた壁の欠片を、人影を狙って投げ落とした。小さくてよくは見えなかったが、人影が慌てたような気がした。

 

アタシはなんだか楽しくなってきて、ひとついいことを思いついた。アタシはポーチからペンを取り出すと、手近な石のいくつかに文字を書いた。『ばーか』書いた言葉を呟きながら、アタシはまた人影を狙った。

 

轟音。梯子に当たったのか、甲高い音がした。アタシは構わず投げ続けた。『あほ』 人影が、壁から逃げたように見えた。『むだ』 あるいは、アタシの石が当たって落ちたか。いい気味だった。『やめちまえ』 何かが耳元をかすめ、そのまま施設の空き地に落ちた。

 

思いつく罵倒の言葉をあらかた投げ終えたところで、アタシはこれはある種の手紙だと気づいた。今のアタシなら、何でも言える。アタシの心を冷静な残酷さが支配した――壁の上を知っているアタシなら、あいつらの夢をズタズタに引き裂いてしまえる。

 

アタシは、慕っていた若い教官の顔を思い出した。引退してすぐ教官になった人で、自分の夢を継いで欲しいと口癖のように言っていた。『かべはうすい』『こわしたほうがはやい』 現実を知ったら、わざわざ登る必要はないと知ったら、彼はどう思うだろう。『なかはくうどう』『はしごがある』 自分の残酷さに、アタシは我ながらほくそ笑んだ。

 

このときのアタシの投げやりさを思い返せば、アタシが次の行動に出られたのは、ほとんど奇跡と呼んでいいだろう。『かべをこわせ』 投げてから、これこそが助かるための方法だとアタシは気づいた。下を見ると、地面に人だかりができていた。アタシは人だかりに、登るのが素晴らしいと信じる馬鹿どもに向かって投げ続けた。『かべをこわせ』 『かべをこわせ』 『なかにいる』 『ましたにいく』……