タイトル未設定

何事においても、自由度は足枷だ。

 

子供の名前を決めるのは難しい。研究テーマの策定は、研究を進めるのよりよほど大変だ。人が「何か面白いことを言って」と言ったとき、彼らは面白いことを要求するではなく、自由度の高さに相手を困らせようとしている。

 

だからほとんどの場合、順調な進捗は理詰めによってなされる。自由を捨て、必然性の連鎖に身を任せるのだ。研究には起点がある。文章が、書き出したらあとはスムーズに進むのは、書き出しがその後の文章を定めるからだ。

 

しかし、必然性で処理できないことも世の中にはある。文章のタイトルが、その一例だ。どこぞの小説投稿サイトのもはや設定の説明文と化したタイトルを除き、タイトルは内容から演繹されるものではない。タイトルは自由であり、それゆえ確信をもってタイトルを決定するのは不可能だ。

 

そのくせ、タイトルはすべてについて回る。全くの確信なしに曖昧に決められたものなのに、それでも作品を同定するキーとして用いられる。確信をもって記述した中身より、いつまでも納得できないタイトルの方が、はるかに広範囲に流布することになるのだ。

 

ペンネーム、主人公の名前。およそ固有名詞には、すべて同じことが言える。どう設定しても話に影響を与えない部分、話から影響を受けにくい部分。なのに、そのどうでもいいはずの設定こそ、最もよく目にするものだ――まるでそれが、一番重要なことのように。

 

どう決めても話に影響はしないことは、さっさと決めた方が良い。身に染みついた優柔不断を排し、前に進まねばならない。だが、もう少し悩んで決めようと思う。結局、悩んだ結果の結論だという事実が、少しばかりの納得をもたらしてくれると思うからだ。