必然性の連鎖

物事を前にすすめるには、どのように考えればいいか? 目の前のプロジェクトが滞りなく進んでいるように見えるとき、わたしはいったい、なにをしていたのだろうか? あまりの順調さにみずからの行いを俯瞰してみることすら忘れているようなとき、わたしの目にくっきりと見えていた決然とした景色。あれはいったい、どこにいってしまったのだろう?

 

なかなか進まない物事を前にして、わたしはそんなことを考える。わたしにも調子のいい時期があったはず、なのに目の前の課題をいま、わたしはどうしてその通りに処理できないのだろう。すくなくとも言えることはひとつ、こんなことを考え続けたところで結果にはつながらない。どうやったって、思考は堂々巡りだ。なにせ物事が進む時期のわたしは、そんな抽象的な思考へと落ちて行ったりはしないのだから。

 

そのような抽象性の輪廻から、残念ながら抜け出す術はない。なにも思いつかないわたしを地獄から解き放ってくれるのは結局、努力でも論理でも思想でも忍耐でもない。時間。枯れた思考の源泉が再び水を吐き出すようになるまで、わたしはただ待つしかない。待つことでしか、次の成果は得られない。

 

しかしながら。順調さの正体だけは最近、分かってきたような気がする。素性が分かったからと言って、突然目の前のものが順調に進み始める、なんて都合のいいことは起こらないけれど。その正体は、必然性の連鎖。目の前の状況から見て、必然に見える行動を繰り返すこと。それだけで次の結果が得られることこそが、順調だということなのだとわたしは思う。

 

いま現在のわたしにはやることがない。あらゆる方面で、次になにをしたらいいのかよく分からない。必然にしなければならないことといえばせいぜい、飛行機の予約とか書類の提出とかなもので、そのほかには一切、すべきことが明白な行動はない。わたしがつぎに取る行動の候補にはどれも必然性がなく、次に考えるべきことも分からず、したがって、けっして次なる必然性が生まれることはない。

 

暇というのは残念ながら、やることを思いつかない場合には、そんなにいいものではないのである。

 

物事は、最初がいちばん肝心だ。最初さえどうにかしてしまえば、あとは流れでどうにかなる。必然性の連鎖がわたしたちを、しかるべき地点まで連れて行ってくれる。そうなれば少なくとも、問題は努力で解決できる。

 

そしていちばん難しいのもまた、最初なのである。この世界のどこかに眠っているはずの、ドミノ倒しの一枚目。けれどそれがどこにあるのかは、世界中のだれも知らない。