疲れ

 すべてが終わると、どっと疲れが出る。これまで幾度となく経験してきたその不思議な現象を、いまあらためて実感している。

 

 もっとも、不思議なのは疲れが出ることではない。働いていたのだから疲れるのは当たり前で、むしろおかしいのはそれ以前に疲れが出ていなかったことである。緊張していると疲れには気づかないとはよく言うが、わたしに緊張していた覚えはない。わたしはもう二十六、世の中をただしく舐める方法がようやく分かり始めた年齢であり、今回くらいの仕事でわざわざ緊張を覚えたりはしない。そうです。わたしは緊張しない性質なんです。

 

 そう主張したときにどういうことばがかえってくるのかは、もはや聞くまでもなく決まっている。「自分では緊張してないと思ってても、知らず知らずのうちに気を張ってたんだよ、そういうことってあるじゃない?」 わたしが疲れたのは曰くその隠された緊張が解けたからであり、さらに曰く、とうの本人が気づいてないその緊張の存在をその赤の他人が疑うことなく確信している。

 

 よろしい、ならば戦争だ。わたしの精神状態についてどちらがより詳しいか。戦って決めようじゃないか。あらかじめ断っておくが、緊張ってものの定義は、わたしの主観的な精神状態の中にしかないんだぞ? そしてわたしは昨日も一昨日もぐっすり眠ったし、夜中にうなされることも飛び起きることもなかったのだが?

 

 と息巻いてはみるもののやはり身体は正直であり、実際に疲れているものを疲れていないことにはできない。疲れが出た原因が緊張が解けたからであるという説明をわたしは疑っているが、けれどもやはり、疲れたものは疲れたのだ。

 

 そして思いなおせば、そういえばまだすべては終わっていないのだった。家に帰るまでが遠足ですと小学校の先生はかならず言うが、まだわたしは家に帰ってはいない。明日は帰らねばならない。

 

 すべてが終わると、疲れが出る。それにしばしばこじつけられる理由付けの真偽のほどはさておき、疲れるということだけは事実である。だがまだすべては終わっておらず、法則にしたがうのならわたしは明日、もっと疲れることになる。すべてが終わったわけではないいまの疲れとはまだかりそめの疲れであり、真の疲れはいつも、あとからやってくる。

 

 それが若干、わたしは怖い。けれどまあ、家にいればどうにかなるだろう。そして本当に怖いのは、これが真の疲れであって、何らかの理由でフライングして来てしまっていた場合である。もしそうなら、家に帰るだけでも一苦労である。