粗雑な物語

理論の研究者が論文に書く、しょうもない応用が嫌いだ。本当の応用のことになんてまったく興味がないのに、同業者をけむに巻くためだけに持ち出される、想像上の実世界が嫌いだ。そんな粗雑な方便の良しあしで論文の採択を決める査読者は、もちろんもっと嫌いだ。査読者ウケのためだと割り切ってそういう物語をでっちあげるのは百歩譲って仕方がないにしても、査読者すらいない場面でそうするのは受け入れられない。

 

応用について質問されるのを避けるためにスライドに応用のページを設けるのはいいし、外の分野のひとが応用を気にするのはまったく自然なことだと思う。発表が分からないからか、とりあえず応用について聞いてくる質問者も、本音を言えば素直に黙っていてほしいとはいえ、まあ許せるかもしれない。けれどその質問が、応用なんて全部でっちあげだと知っているはずの同業者から来るのは腹立たしい。応用の世界なんかなにひとつ知らないもの同士が、そして興味すら抱いたことのないもの同士が、架空の応用の可能性を議論することになんらかの意味があるなどとは、とても思えない。

 

こう書くとなんだか、わたしが応用の肩を持っているみたいだ。理論をやっているやつらは現実をなにも知らない役立たずだ、なんて、基礎に理解のないステレオタイプな応用研究者がいちばん言いそうなことである。役に立たないことがしたいなどとさんざんわめいておいて、なんだこの手のひら返しは。役に立たない人間が言うことを、頭ごなしに否定してるじゃないか。

 

役に立つことには負の価値があると、昔のわたしは言っていた。そのころと比べれば、わたしはずいぶん丸くなった気がする。役に立つならば立てばいい、それでもやはりまだ、わたしは特に、世の中の役に立ちたいなどとは思ってはいない。と、思う。

 

わたしが嫌いなのはきっと、粗雑な物語である。証明した定理から逆算して作った未来像は、証明した定理以外のすべての部分が未設計で、まったく筋の通りようがない。ではほかの部分を全部設定すればいいのではないか、と言って考えてみれば、今度は理論的な不可能性が顔を出す。この部分は現実に不可能だということになっています、代替の手段はありません。だからおかしいと思っても、ツッコまないのがお約束です。

 

そしてもっと悪いことに、たとえすべての部分が矛盾なく設計できたとして、出来上がる物語はたいてい、すこぶるつまらないのだ。

 

つまらない小説はだれも読みたくない。つまらない実応用は、たとえ現実的だろうがつまらない。そして現実のサーベイの足りないわたしたちに書けるのは、具体性と熱気に欠ける、つまらない物語だけなのだ。