機械への信頼

英語の執筆に AI を多用するようになったここ数ヶ月の間に、わたしの中にはどうやら新しい認識が目覚めかけているようだ。

 

これまでのわたしは、自動翻訳を油断ならないものだと理解していた。やつらに日本語を与えるとそれらしき英文は返ってくるのだが、けっこうな割合で間違っている。わたしの日本語の文法構造をやつらは取り間違えるし、そのせいで支離滅裂ななんらかが出来上がる。悪いときは否定語を見落としてまるきり反対の意味に変えてしまうし、そもそもわたしがまったく書いていない文を勝手に補完して、話を明後日の方向に歪めてしまうことだってあった。

 

そうやってできた文章がそのまま世に出れば、当然困るのはわたしだ。いくら犯人が AI だとはいえ、「AI がやりました」では言い訳にならない。AI とはそういう罪を無邪気に起こす存在なのだから、AI が間違えればそれは利用者の監督不行き届きということになる。ペットの犬が人間の子供を噛んだなら、飼い主の責任になるようにだ。

 

だからわたしはつねに監視していなければならない。翻訳機が一行出力するためにわたしはそれを読み、本当に別の意味になっていないかどうかを入念に確かめる。それを繰り返して、英文を作っていく。面倒な作業だが、わたしは実際にそうしていた。それでもいちから英語を書くよりは、まだマシだった。

 

けれども技術の進歩はすさまじい。最近の AI は、あくまでこれまでと比べての話ではあるが、格段に間違えなくなってきている。いまややつらは結構な割合で、まったくケチのつけようのない英文を生成してくれる。人間が手取り足取り修正してあげなくても、自力でいろいろなことができるようになっているのだ。

 

わたしに芽生えた認識を、ひとことであらわすなら。それをわたしは、「信頼」と呼ぼう。AI には仕事を任せるに足る能力がある。ある程度の日本語なら機械はきっと完璧な英語に変換してくれるだろう、とわたしは、いまや当然の期待をかけるようになった。

 

機械の翻訳をわたしが監視していなければならぬ根拠は、まだまったく消滅していない。AI はいまでも間違えるし、間違いを放置したのならそれはわたしの責任だ。だから理屈の上では、まだ AI を信頼してはならない。やつらは相対的に精度を上げただけで、AI がこう言ったから正しいと主張できるような、そんな絶対的な社会的信用を勝ち得ているわけではないのだ。

 

けれど間違いとはつねに頻度の問題だ。人間だって結局は間違えるのに、人間は人間を信頼する。ならばそれと同じように、機械を信じてやったっていいだろう。やつらはついに、わたしが期待を覚えられるだけのレベルに達したのだから。