状態と権利の多様性 ①

現代は多様性の時代だ。街をあるいていて外国人を見かけるなんてことは、いまどきもう珍しいことではない。コンビニに行けばさまざまな国籍の店員が会計をしてくれるし、大学院の講義はけっこうな数、英語で行われている。家庭では共働きが当たり前になり、これまで男性だらけだった職種でも、すこしずつ女性の割合が上がってきている。

 

アファーマティブ・アクションなんてことばも、よく聞くようになって久しい。特定の属性をもつひとが何らかの地位を目指しやすくするため、そのひとたちの採用基準をわざと低めに設定する施策のことだ。もっともその是非についてはいま、さまざまな議論が戦わされている。論者たちの発言はさまざまで、思わず納得させられる意見からどう考えても私怨に過ぎない暴言までピンキリだけれど、今日はそのことには深入りしないでおこう。社会を上げた議論の的になるということは、それだけ多様性というものが、わたしたちの生活に深くかかわってくる概念になったという証拠だろう。

 

さて。けれど多様性というものは、しばしばごちゃまぜにされて語られてしまう。現にいま、わたしはわざとそうしてみせた。けれどきっと、ほとんどのひとは、これらの違いには気づかなかっただろう。それだけごっちゃになっているのだ。

 

街や研究室に外国人が多い、職場の性別比率が均等に近い。こういう意味での多様性は、「現実に多様なひとが存在する」という多様性だ。状態としての多様性、と言ってもいいかもしれない。この多様性とは、多様である組織や集団の一員として自分たち自身を眺めてみたときに、その場所が多様であると感じるその感覚のことだ。

 

特定の属性をもつひとを救済する、と言った多様性は、しかしながらそうではない。そういうことを語るとき、多様性ということばは、社会的弱者が社会的強者とおなじだけの恩恵を受けられる権利という意味で使われる。現状には格差があり、だから多様性は達成されていない。そして多様性が達成されるのは、社会的弱者が、自分たちの外部にあるなんらかの集団へと入ることができるようになったときだ。重要なのはあくまで門戸がじゅうぶんに開かれるということで、いざ所属したあとに覚える、当事者的な感覚のいかんは関係ない。この多様性を、そうだな、権利としての多様性、とでも呼ぼうか。

 

権利としての多様性を守れという意見には、かなり分かりやすい正当性がある。なにせそれは、権利の問題なのだ。すべてのひとが、なりたい自分になれる世界をつくろう。すくなくとも、みずからの能力や努力とは関係のない部分では、そのための障壁が変わらない世界をつくろう。現代にこれが正義であることには、なかなか疑いの余地はないだろう。