一般的正義の肖像 ②

昨日述べたことから、一般的正義なるものに関する、奇妙だが興味深い定義付けが導かれる。それは一般的に、一般的正義だと信じられているものとは異なるかもしれない。しかしながら、だれもがそれに賛同してくれるという面において、いわゆる道徳的な正義よりさらに、「一般的な」正義であるように思われるのだ。

 

その定義とはすなわち。真なる正義とは実は、誰もが応援する小さな悪戯のことである、という取り決めのことだ。

 

論拠を見ていこう。一般的な正義と「一般的な」正義、これらはややこしいから以後、わたしの提案する正義のことは単に、悪戯、と呼ぶことにする。そうしたとき、わたしたちは正義と聞いて、一番になにを思い浮かべるだろうか。わたしたちの味方をしてくれる、心強く不可欠な善意の存在……という答えがおそらく、もっとも一般的に正しい回答であろうことをわたしたちは知っている。知ってはいる。知ってはいるが、はたしてわたしたちの多くは、そう真に思っているだろうか? 正義を肯定せねばならぬという正義を、わたしたちは肯定しているだろうか?

 

あなたの人格を否定するのはわたしの本意ではないから、この質問に明確な答えを記すことはよしておこう。より真なる正義とわたしが思うものを、あなたに押し付けようとは試みないようにしよう。ただわたしとしては、わたし個人としては、こう考える。正義を肯定せねばならぬというテーゼが正義の一部である以上、わたしはこの正義を、正義と呼びたくはない。

 

そして悪戯とは。定義するならばそれは、みずからの行いが正義に外れていることを、つねにしっかりと認識しながら遂行されるもののことだ。それは正義であってはいけない。誰かを困らせたり、辱めたり、あるいはすこしばかり規則に抵触したりするぶんには構わないが……断じて、息苦しくあってはいけない。そして何より、単なる悪になってはならない――悪戯ということばに「戯」の字をのこしておくために、それはほぼあらゆる正義と、絶妙な距離感をつねに保ち続けなければならないのだ。

 

こうしてみれば、悪戯はなかなか悪戯でいられないようにも見える。正義なるものはひとによってまるきり異なるのに、そのすべての赦しを得るなど、到底不可能な作業ではないか。悪戯は正義よりも良いものだということは認めよう、だがそんなもの、いったいどうして成立するのだ?

 

そう。確かに、悪戯は難しい。正義という厳格さに許してもらえるものは、なかなか当の正義以外にはありえない。だが不思議なことに、誰もが正義ではないと思いながらそれでも応援する、そういうものが、たまにはあるのである。