寝床のランダムネス

普段の夜、布団の中で、わたしの脳は何某かを考えている。何某かというのもその内容は日ごとにばらばらで、何の方向性もありはしない。ある日は研究上の課題の解決策を求めてうんうんと唸っていたと思えば、別の日にはカードゲームの新しいデッキに想いを馳せている。さらに別の日、わたしは日記の題材を補充しようと画策し、思いついたそれを心にとどめようと復唱している。それまた別の日には、直近話題になった社会問題に関して、すべての内部構造を総括する暴力的な一言を思い浮かべて、侮蔑と冷笑とを全方位へと平等に振りまいている始末だ。

 

思考というのはもちろん、頭を回転させる行動だ。反面睡眠とは頭を停止させる行動であるから、そういった夜、わたしは必然的に寝付けなくなる。暇さえあれば考えてしまう、ホモ・サピエンスの悲しき性。偉大な文明を発展させるだけの知能と引き換えに、かくして人類は寝不足を手に入れた。

 

さてもしある日、わたしが早急に寝る必要があるなら、考えたいという欲求に身を任せてはいられない。そういうときわたしはわたしの脳に、考えるなと命令する。より正確に言えば、わたしはわたしの脳に考えるのをやめさせる方法について考え始める。考えないために考えるとはまさしく不毛な堂々巡り、絵にかいたような滑稽だが、意外とこれが馬鹿にもできない。考えない方法について長年考え続けた結果、わたしは思考を止め、寝付くことだけに集中するすべを身につけたのである。

 

まあ、とはいえ、早く寝たい状況はそう多くはない。考えられる状況とすれば、翌朝に外せない用事があるか、あるいは慢性的に寝不足かだのどちらかだろう。だが、きわめて典型的な現代人であるところのわたしにとっては、どちらもまれな事案だ。

 

というわけで多くの場合、わたしは思考に身を任せることになる。しこうして人生の多くの時間を、わたしは暗闇に浮かぶ思念と戯れて過ごしている。時間にして年に数百時間。もし同じことを考え続けていれば、一定の洞察が得られるであろう長さの時間だ。実際、わたしがもしここ数年の寝床を研究とともに過ごしていれば、追加でもう一、二本の論文は書けていただろう。だが脳とは融通の利かぬもので、そのときどきに応じて気まぐれな題材を追いかけている。考えないように考えるすべをわたしは身につけたが、考えたいことを考えるすべに関しては、残念ながらまったくのノープランだ。

 

まあ、というわけで、思考とは付き合っていくしかない。幸いなことに、何を考えていようが考えること自体は楽しいのだ。さらにいえば、思考は不毛なばかりではない。脳という偶然性に見返りを求めるのはすこし楽観的すぎるきらいがあるとしても、たまには、役に立つ場所に導いてくれたと実感することもある。