文脈不自由文法

キーボードが治らなくなったので、タブレットから投稿する。

 

最初の一文で、タブレット環境の予想以上の快適さに気づいた。いつも文章は練りながら書いているから、タイピングの遅さはボトルネックにはならない。

 

では逆に、タイピングはいつボトルネックだったか。すぐに思いつくのは、プログラミングコンテストの簡単な問題だ。次に書くべき文が分かり切っているから、手よりも頭が速く動く。タブレット特有の、コピー・アンド・ペーストや記号の問題を差し引いても、コードは日本語より素早く書ける。

 

ここでふと、ひとつの疑問が浮かび上がってくる。すなわち私は、日本語よりコードの方が得意なのではないか?

 

反論はいくらでも考えられるし、その反論にもいくらでも反論できる。日本語は練って書いている、だがコードだって、乱暴に書き殴れば収拾がつかなくなる。コードには定型部分が多い、だが日本語にだって形式はある。コードだって複雑なところでは手が止まる、でも日本語も負けてはいない。

 

コードと日本語の得意さなんて、そもそもナンセンスな比較かもしれない。たまたま言語と一括りにできるだけで、表現の対象はまったく別だ。自然言語チョムスキー的解釈可能性を認めてすらも、あまりに雑なアナロジー

 

だがそれにはいったん目を瞑って、私はこの比較に希望を見出そうと思う。すなわち、訓練すれば私は、コードほどの迅速さで日本語を記述できるかもしれないということだ。