複雑であればあるほど、ひとに伝えるのは難しい。
わたしは大学院生をしていて、たまに論文を書くわけだが、どう書けばいいのかいつも困っている。論文に書くのは人類がいまだ誰も考えたことのないことだし、残念ながら人類はそこそこ賢いから、そういうものはまず間違いなく複雑なのだ。
内容をまとめあげるだけでもたいへんなのに、あろうことかわたしの前は、さらにもうひとつの壁が立ちはだかってくる。そう、言語の壁だ。
われわれの分野では、ほとんどの論文は英語だ。非ネイティブのわたしは、英語などまったく正確にかけるわけがない。事実、論文を英文校正に出せば、返ってきた文章はもう、ほとんど校正者が書いたとしか思えない。論文を査読に出せば、おびただしい数の英語のミスを指摘される。そして、こちとらネイティブちゃうねんから大目に見ろやゴルアァ! と画面の前で叫びながら、そうは言ってもわたしがミスしていることは間違いないから、もう子猫のような従順さで、言われたとおりに粛々と文章を直していくわけである。ちなみに、ミスは後ろから順に修正していくと行番号がずれなくて便利です。
さて、指摘される間違いにも、いくつかの種類がある。ひとつめは単純で、主語が複数形なのに be 動詞が単数形だったり、三人称単数現在の s が余計についていたりするやつだ。中学生がよくやるミスだが、人はいくつになっても変わらない。三つ子の文法ミス、百まで。
ふたつめは語法のミスだ。これはもう覚えられる気がしないのであきらめている。最近知ったんですが、discuss のあとに about はいらないらしいです。それみんな覚えてるんスカ? えっ、覚えてる? ごめんなさい。
みっつめ、冠詞。a と the、そして無冠詞のちがい。もちろんお手上げだが、わたしにはわたしの考えたさいきょうの解決策がある。そのきわめて理知的な策をお見せしよう。
a を the にたくさん直されたのなら。
そう、つぎに迷ったら the にすることにするのである。
なるほどなるほど、ここらへんは the にしておけばいいのね。そうして the の気分で書いていると、つぎは the を a に直されまくることになるわけである。ちょうどいいバランスに収束してくれればいいのだが、いまのところそんな気配はまったくない。
よっつめ、もう分類に疲れてきた。長い表現を簡潔に直される。これもですね、無理です。日本語でもできてるか怪しいんだよね。へぇ、そんな表現できるんですかぁ。次からできるとはとても思えないけど、なるほどありがとうございます。こなれすぎてて、わたしが読んだら困りそうだけど、そうなんですか、ネイティブはこっちの方がいいんですね。勉強になりました。
さいごに、単語のチョイス。急に真面目になるのだが、これまでと違って、この原因には正直、ちょっとだけ興味がある。こう言っては大袈裟だが、わたしはここに、言語の神秘のようなものを感じるのだ。たしかに非母語で正確に書けと言われるのは癪だが、べつに非母語そのものがきらいなわけではないのだ。
たとえば、日本語の「特に」。乏しい語彙力を駆使して全部 "Especially" と書いたら、ものすごい量の訂正をもらった。こっちは "Particularly" がただしく、そっちは "Specifically" がただしいらしいです。なるほど完全に理解した、日本語と英語、単語のスコープは当然違うよね。じゃあわたしわかっちゃったんですけど、これは「特に」とは訳されないけど、"Specifically" の出番ですよね? ……えっ、"Moreover"、そうですか……
……もちろん理不尽な気はするけど、こういうのが直感的に区別できるような頭のつくりには、なんか興味があるかな。
さて、面白いことに、たまにこのスコープが日英で共通していることもある。ほんとうはこれについて書きたかったのだが、前置きをしているうちにじゅうぶんキリが良くなってしまったから、今日はこれで終わりにしよう。今日言えることは……そうだな、わたしがこんな多彩なミスを諦めつくしていると実感した以上、あんまり単著論文を書く気が起こらなくなってしまった、ということくらいかな。