書き直しの正当化

数学の証明を書き始めるには、物語を始めるよりはるかに高解像度の理解が必要だ。往々にして、見切り発車は失敗する――やればできるだろうと思って放っておいたところに、しばしば問題の本質が隠れているからだ。

 

だが気を付けていてもなお、証明は頓挫する。紙の上のイメージをいくら詳細に詰めたところで、駄目な定義はできてしまう。物語と同様、証明にも、書いてみないと分からないことはあるのだ。

 

物語と違って証明は、一箇所の間違いが全体の間違いを意味する。最初の定義が使い物にならないと分かったなら、軌道修正など不可能だ。できることはただひとつ、最初から書き直すことのみ。

 

だから証明は、進んで戻ってを繰り返す。作業は遅々として進まず、一週間分の進捗はすぐ水泡に帰す。こうして消した証明は、間違っているから、決して再利用されない。進捗だったはずのもの、そのたった一箇所にひびが入れば、それはただ消失する。

 

 

だが、次に定義を変えて書き直してみれば、前よりも手は順調に動く。こう解釈することが可能だ――間違った証明を通して深まった理解が、次の証明に応用されている。

……都合が良すぎるだろうか? 

 

もちろん、そう解釈しないとやっていられないという面もある。

だが実のところ、そう解釈しない理由もないのだ。

 

 

 

そんなものへの理解を深めて何になるのだ、時折私はそう思う。理解できるのはあくまで自著論文のいち証明の細部の細部、まったくもって本質的な事柄ではない。理解していなくても、正しい証明を書きさえすればよいのだ。

 

理解による間違いの正当化。証明を書き切ることが目的な以上、それは不誠実な態度だ。だが、正当化しないとやっていられないのだとしたら。

 

その二枚舌は、もはや不都合の黙認ではない。

最後まで書ききるテクニックとして私は、私の不誠実を正当化する。