第十二話

真っ暗闇。アタシは叫び続けたが、反応はなかった。

 

たった数メートルの壁。この向こうは、見慣れた訓練施設。でも、その数メートルを超える大変さを、アタシたちは誰よりもよく知っていた。そしてその大変さはいま、アタシの生死の問題だった。

 

ちゃんと考えなきゃ。すぐ近くに、戻るべき場所があるんだから。

 

アタシは訓練を思い出した。初めての日の全能感と、パンパンに腫れあがった両腕を。教官の怒声を、昇級の時の賞賛の声を。仲間と疎遠になったことを、お兄ちゃんとの別れを。そのどれもが、すぐ近くにある――でも、何も見えない。

 

アタシは思いに耽るときの癖で、何気なくポーチの中をまさぐった。この癖のせいで、アタシはよく教官に怒られていた――話を聞いていないのがバレバレだったから。暗闇の中だから、教官の姿が余計にありありと思いだされた。何も入っていないポーチを執拗に検査し続けた教官を思い出して、アタシはくすりとした。

 

紙のような感触に、アタシはようやく、これが自分のポーチではないと思い出した。よく触って確かめようと、アタシはそれを取り出した。触った限りそれは四つ折りの紙で、それ以上のことは分からなかった。何かが書いてあるとしても、暗くてとても読めない。

 

アタシはさらにポーチを探ったが、何も残ってはいなかった。つまりお兄ちゃんは、この紙だけを持って登ったことになる。お兄ちゃんは、理由もなく何かをポーチに入れっぱなしにするような人ではない。だから、この紙は、何か大事なもの。

 

でも、なんだろう。

思い出の品? かもしれない。でも、なにを?

 

アタシはふと、望遠鏡の彼女を思い出した。そうだ、写真。

もし、お兄ちゃんもカメラを持っていたとしたら?

アタシは写真が、壁の向こうにアタシたちの世界を伝えるのにも使えると気づいた。

 

でもそれなら、壁の上に残しては行かないはずだ。それじゃあ、誰にも伝えられないじゃない。

 

そう、誰にも。だから、違う。

誰にも。

誰にも?

 

アタシの頭に天啓が降り注いだ。突然すべてが繋がり、アタシは興奮に叫びかけた。アタシに伝わる。あそこに置いておけば、次の登攀者に伝わる。

 

アタシは梯子のたもとを探った。ほどなくして足先が何かに当たり、アタシは興奮して拾い上げた。間違いない。これは、ペンだ。あの紙は、アタシへの手紙。

 

問題は、どうやって読むかだった。さっきの光が再び閃けば、一瞬の灯りは確保できるかもしれない。だが、一瞬で読める手紙かは分からないし、目が慣れるとも思えない。何より、あの光が次いつ閃くかも分からない。

 

それよりも、もっと確実な方法があった。間違いなく大変、でもやるしかなかった。これだけが手がかりだから。アタシは気合を入れ、梯子を掴むと、背中の痛みをこらえて身体を持ち上げた。

 

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一段ごとに、背中が疼いた。それでも、アタシは登った。壁の割れ目を探しながら登るより、梯子ははるかに簡単なはずだった――それでも、汗ばむ両手に、アタシは何度も手を滑らせかけた。

 

下が見えない梯子を登るのは、壁の外側を登るよりもよほど怖かった。でも、終わりがあると知っているぶん、降りてきた時よりはマシだった。

 

背中の痛みに、アタシは何度もあきらめかけた。あのまま、誰かが気づいてくれるのを待った方がよかったんじゃないか。そもそも、大したことは書かれていないんじゃないか。アタシは何度も後悔した。でも、後には引けなかった。選択肢は、登るか、降りるか。そして、降りるのもまた大変だった。

 

もう何度後悔したか分からない頃、上から一筋の光が降ってくるのが分かった。希望の光、とはこのときのためにある言葉だった。はやる気持ちを抑えてもう少し登ると、アタシは左手で手紙を取り出し、目の前に広げた。

 

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絶望、とはこのときのためにある言葉だった。

この手紙には、ううん。

この紙には、何も書かれていなかった。

 

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もはや希望は残されていなかった。アタシは不思議と落ち着いていた。アタシはこの紙を握りつぶして捨てるべきだ、そう考える自分を、もう一人のアタシが冷静に見つめていた。アタシは紙を念入りに丸めて投げ捨てると、再び登りだした――希望のためにではなく、単に座れる場所を確保するために。あの筒が再びアタシを狙ってきたとしても、もうどうでもよかった。

 

ほどなくして、壁の上についた。外の昼はあまりに明るくて、アタシはここで死ぬなら本望だと思った。アタシは寝そべって、でも目は見開いたままにした。眩しさに、目が潰れてくれればとも思った。轟音がして、開けっ放しの口に土埃の味がした。

 

目が慣れると、アタシは壁のふちに腰掛けた。真下に何かが動くのが見え、アタシは訓練の様子だと思った。みんな何も知らずに汗を流す。登った先は、こんななのに。アタシは可笑しくなって、近くに落ちていた壁の欠片を、人影を狙って投げ落とした。小さくてよくは見えなかったが、人影が慌てたような気がした。

 

アタシはなんだか楽しくなってきて、ひとついいことを思いついた。アタシはポーチからペンを取り出すと、手近な石のいくつかに文字を書いた。『ばーか』書いた言葉を呟きながら、アタシはまた人影を狙った。

 

轟音。梯子に当たったのか、甲高い音がした。アタシは構わず投げ続けた。『あほ』 人影が、壁から逃げたように見えた。『むだ』 あるいは、アタシの石が当たって落ちたか。いい気味だった。『やめちまえ』 何かが耳元をかすめ、そのまま施設の空き地に落ちた。

 

思いつく罵倒の言葉をあらかた投げ終えたところで、アタシはこれはある種の手紙だと気づいた。今のアタシなら、何でも言える。アタシの心を冷静な残酷さが支配した――壁の上を知っているアタシなら、あいつらの夢をズタズタに引き裂いてしまえる。

 

アタシは、慕っていた若い教官の顔を思い出した。引退してすぐ教官になった人で、自分の夢を継いで欲しいと口癖のように言っていた。『かべはうすい』『こわしたほうがはやい』 現実を知ったら、わざわざ登る必要はないと知ったら、彼はどう思うだろう。『なかはくうどう』『はしごがある』 自分の残酷さに、アタシは我ながらほくそ笑んだ。

 

このときのアタシの投げやりさを思い返せば、アタシが次の行動に出られたのは、ほとんど奇跡と呼んでいいだろう。『かべをこわせ』 投げてから、これこそが助かるための方法だとアタシは気づいた。下を見ると、地面に人だかりができていた。アタシは人だかりに、登るのが素晴らしいと信じる馬鹿どもに向かって投げ続けた。『かべをこわせ』 『かべをこわせ』 『なかにいる』 『ましたにいく』……