物語の局所性

今日は小説はお休みにする。

 

話の流れは、当初の予定とは大きく変わっている。物語には局所的な要請があり、その要請には素直に従わなければならないからだ。

 

物語の各部分は、それほど自由ではない。物語のどの部分でも、登場人物は各々の行動原理に従わねばならず、物語は予定の方向にまっすぐには進まない。物語のどの部分も退屈であってはならず、どの部分にも危機が必要になる。すなわち、物語は順調に進んではならない。

 

もちろん、物語には大域的な要請もある。大域的な要請とは、すなわち、テーマであり、最後に何が明かされるかだ。クライマックスに至る流れは、曖昧には定めてある。だが、その通りに行くかは、書いてみなければ分からない。

 

結局のところ、執筆とはほとんど局所的な作業である。これはある意味では、恐怖だ――局所的要請に従い続けた結果、物語が詰んでしまうという。主人公たちの問題は、作者ですら物語化不能なものにまで膨らんでしまう可能性がある。

 

だが執筆の局所性は、同時に救済でもある。局所的要請に従い続ける限り、執筆は、ある種の必然の流れのもとに進められる。現在のシーンがあれば、次のシーンのために発想の飛躍は不要だ――主人公たちの行動原理と、物語の向かうべき方向を、単に照らし合わせればよい。

 

もちろん、局所性に従い続けるだけの執筆には問題がある。だがそれはおそらく致命的な問題ではない――大域性の喪失ではない。これは非常に技術的な問題だ――物語には伏線が必要だが、未来が定まっていなければ伏線は張れない。

 

技術的には、時系列順の執筆は矛盾している。書かなければ未来が定まらないのに、書く前に未来を記述する必要がある。だから、健全な執筆の作業は、何度か前に戻って書き直すことになる。この意味で、連載とは矛盾だ。しかし同時に、そうでもしなければ書き続けられないという確信もある。

 

結局、執筆は分かりやすい作業だ。執筆には要請があり、恐怖がある。問題があり、矛盾もある。だが、すべては、書き続けることでしか解決しない。だから、すべてを無視して書き続けるしかない。

 

私は信じる、少しでも大域性を意識すれば、局所性の連鎖が全体の流れを生み出すことを。私は信じる、世界を調整できるという作者の特権性が、主人公たちがあるべき結末を迎えるための強力な武器となることを。私は信じる、戻って伏線を張りなおすだけの余裕を、再構成の機会を。

 

というわけで、明日からもまた書き続ける予定である。結局作者とは、物語の必然性に忠実であり続けるしかないのだから。