激情 ①

みずからの無能を感じさせる物体を前にして、彼はひとり悩んでいた。

 

時刻は深夜三時を回っていた。期末課題の提出時刻は五時間後に迫り、だがそれは手つかずだった。目の前にある薄赤色のスライム状の物体は力なく萎びており、それはまるで彼自身の脳を模倣しているかのようだった。けっして具体的な形をなすことのないままに、限りある時間をただ浪費する存在。

 

煮え切らない彼自身の脳には一対の電極が貼られていた。電極から伸びるコードは脇に置かれたタブレット端末につながっており、それは脳波の平坦な推移を示す無機質な緑色の曲線を表示していた。それは記されたが最後二度と思い返されることのない、なんの意味も持たない脳の活動だった。

 

誰に向けるでもなく、彼はあいまいに頷いた。締切まで、もう時間はないのだ。人生には、できなくてもやらなければならないことがある。そしてこれは間違いなく、そのうちのひとつだった。

 

激情を思い起こそうと彼は足掻いた。目の前の物質を変形させられるかもしれないなにかを。今回彼が思い起こしたのは、曽祖父の死の遠い記憶だった。彼は目を閉じた。あの老人が死んだときにはまだ死ということの意味を理解できるほど大きくはなっていなかった彼は、だからこそその細部を想像で補ってやる必要があった。葬式の厳粛な雰囲気、周りの大人の陰鬱な顔、普段はいくらでも遊んでくれた叔父が、あのときばかりは構ってくれなかったこと。よくは知らない曽祖父の姿をそれらのすべてへと投影し、必要なだけの激情をかき集めようと試みた。

 

目を開けると薄赤色のスライムは、先ほどとまったく変わらない様子で垂れかかっていた。やはり。彼は悲しみも、悔しがりもしなかった。さんざん積み上げてきた無意味の連続に、新たな一枚が加わっただけ。

 

そこにはただおだやかな絶望と、ゆるやかな焦りだけがあった。

 

この課題に苦戦する予定はなかった。苦戦するかもしれないと思ったためしもなかった。芸術とはつまるところ反復であり、自明な操作の根気強い繰返しに過ぎない。絵の具を調合して目的の色を作るように、さまざまな激情を適切な割合で組合わせる。その能力こそが芸術の真髄であり、しかるにその素材たる激情とは、必要なときに必要な分量を調達できるものでなければならない。安定した作品を残す芸術家はみな、おのれの感情を制御し、調整するすべを理解していた。喜ぶべきときにきちんと喜び、悲しむべきときにきちんと悲しむことができる存在だった。

 

そしてそんな初歩的にところで自分がつまづくなどと、彼はこれまで思いもしなかった。