第五話

まるで、すべてが寝静まったかのような夜だった。ここ数日の春風は嘘のように止み、訓練施設を死神のような静寂が包んでいた。

 

明日が、お兄ちゃんの登攀の日。お兄ちゃんとはもうお別れ。頭では分かっていたが、今更になってその実感が重くのしかかってきた。

 

お兄ちゃんに行ってほしいのかどうか、アタシにはよくわかっていなかった。お兄ちゃんとのお別れは寂しいし、お兄ちゃんのいない生活は不安だ。とはいえ、お兄ちゃんがここに居続けても苦しいだけだし、そもそもお兄ちゃんにとって、これは晴れの舞台のはずだ。

 

でも、今日になって確信した。アタシは、お兄ちゃんに、ずっとここにいて欲しい。今から伝えても、たぶんもう遅いだろう。でも、伝えずにお兄ちゃんが行ってしまう方が、よほど嫌だった。

 

壮行会が終わった後、アタシは、お兄ちゃんの部屋の扉をノックした。

 

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「明日、登るんだよね」部屋に入ると、アタシは言った。部屋はよく片づけられていて、まるでもう誰も住んでいないかのようだった。

「ああ」決意を確認するように、お兄ちゃんは頷いた。

「・・・」静寂。

 

「あ、天気、どうなんだっけ」静寂に耐えかねて、アタシは言った。

「ちゃんと曇るみたいだ。途中で火傷しなくて済む」お兄ちゃんは作り笑いを浮かべた。分かっていた返答。

「・・・」普段は、こんな感じじゃないんだけど。お兄ちゃんと過ごせる最後の時間なのに、アタシはむしろ、ここから逃げ出してしまいたいとさえ感じていた。

 

「えっと」アタシはどうにか、言葉を繋ごうとした。

「うん」お兄ちゃんは待ってくれていた、明日が運命の日だというのに。

「ううん、なんでもない」ダメ。言わなきゃいけないことがあるのは、アタシの方なのに。

 

ううん。

私は分かった、行くなだなんて、今更言えない。もっと前に言っておくべきだった。だからその代わりに、精一杯の元気でアタシは言った。

 

「頑張ってね」

 

言い終えるや否や、アタシは逃げるようにドアに向かい、ドアノブを回した。 

アタシは言えなかった。だから、お兄ちゃんの次の言葉に、アタシはびっくりした。

 

「……くるよ」

「えっ?」

 

「戻って、くるよ」

 

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最初の疑問は、どうやって戻ってくるのか、だった。足場が見えないぶん、壁は、登るより降りる方が格段に難しい。おそらくお兄ちゃんでさえも、あの高さの壁を降りてくるのは無理だ。だからこそ登攀者は皆、壁の向こうを目指す。

 

「北東の壁のそばに、ゴミ処理施設があるよね」お兄ちゃんは話し始めた。施設からの臭いと煙のせいで、あの辺りにはあまり人が住み着いていないことをアタシは知っていた。

「煙のせいで、あの辺りの壁は崩れかけてる。つまり、降りるときの足場が、あの辺りは多い。実はこの前見てきたんだけど、あれなら問題なく降りられると思ったよ」お兄ちゃんは真面目な顔で続けた。

 

アタシの頭の中を、様々な疑問が駆け巡った。よりにもよって、最初に口をついて出てきた疑問は「煙たくないの?」だった。

「それが最初かよ」お兄ちゃんは笑ったが、返答は至って真面目だった。「風向が壁と逆を向いているタイミングなら、煙は問題じゃない」

 

「北東の隅って、遠くない?」また、くだらない質問。「壁の上を歩いていくよ。三時間もあればつくだろう」それでも、お兄ちゃんは真面目に答えてくれた。

 

「教官にはどう言い訳するの?」違う。こんなことを聞きたいんじゃない。「言い訳なんてしないよ。帰ってきたら、もう訓練はしないんだから」そう。それは、そう。

 

「危なくないの?」そう。最初に聞くべきはこれだった。

 

お兄ちゃんは答えた。「命綱なしで登るのだって十分危ないよ。とはいえ、まあ、そのまままっすぐ降りてくるよりだいぶマシだ」口調はまるで変わらなかったが、その顔に不安の影がよぎるのをアタシは見逃さなかった。

 

お兄ちゃんは、不安なのだ。ちゃんと戻ってこられるか。

 

そしてアタシは、気づいた。

お兄ちゃんのその不安に、むしろ安心を覚える自分に。

 

そう、安心を。お兄ちゃんが、戻ってこられないという可能性に。