第六話

望遠鏡の中の少女を眺めながら、私は彼女がここに来た日のことを思い出していた。それは、私の望遠鏡が初めて、誰かの役に立った日だった。

 

春一番の吹く、暖かい春の日だった。空はあまりに青くて、私は、これなら壁の向こう側まででも見渡せるんじゃないかとさえ思った。普段は部屋から出ない私も、この日ばかりは、外を走りでもしないと勿体ないと感じていた。

 

幸い、親方に言われた作業は終わらせてあった。私は工具を置くと、望遠鏡を家の中にしまって外に出た。私は家を出ると最初の角を曲がった。私は久々の解放感を覚えた。まだ両親の工場があったころ、ここは親方のところへのおつかいからの帰り道で、角を曲がると私は一仕事終えた気分になっていたものだった。

 

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まっすぐな通りに私は一度立ち止まると、呼吸を整えた。

 

よーい、どん。

タッタッタッタッタ。

 

私は走り出した。こっちに来てから忘れていた、久々の感覚。肩を切る風の爽快感。

 

タッタッタッタッタ。

 

一定のリズムで、時計の針のように弾み続ける両足。私は決して運動は得意ではないけれど、このリズムは好きだった。私はふと、この規則正しい弾性が何かの機械に応用できないかと思った。

 

タッタッタッタッタ。

タッタッタッタッタ。

タタタタタタタタタ。

 

後ろから、自分のものではない足音が聞こえてきた。振り返ると、簡素な格好のよく日に焼けた少女が、全身をバネのように弾ませて近づいてきていた。すさまじいスピードだった。このあたりでは見ない身なりだったから、おそらく、ずっと遠くから走ってきているのだろう。

 

到底かなわないとはわかりつつも、なぜだかこのとき、私の負けず嫌いが顔を出した。私は、彼女に追い抜かれまいとスピードを上げ……そして三十秒後には、その判断を後悔した。彼女は、息を切らしてへたり込む私の横に立ち止まると、私に水筒を差しだした。

 

「飲むといいよ」彼女の声は、さっきまで走っていたとは全く感じさせなかった。

「……あり……がと」私は全身で息をしながら水筒を受け取ると、飲んだ。

「ほんとに、大丈夫?」一向に息の落ち着かない私を見て、彼女は笑った。人を馬鹿にしようだなんて意図とは無縁の、純粋に可笑しい時の笑顔だった。

 

こんな笑顔を見たのは久しぶりだった。親方が笑うのは、私の作業が上手くいかないときだけだったから。私は、私の組立てた機械が足元から派手に崩れた時の、母の笑顔を思い出していた。およそ高名な学者には似つかない、悪戯っぽい笑顔を。

 

私は気恥ずかしかったが、同時に楽しかった。私は彼女と一緒に笑い、咳込み、そしてまた笑った。

 

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「アタシ、今年の登攀者なんだ」通りを歩きながら、彼女は言った。誰かに自慢したくてたまらないような口ぶりだった。

 

私は登攀者について、あまりよく知らなかった。少なくとも、そんなにいいイメージはなかった。無意味に壁に登って命を無駄遣いする愚か者の集団、それが登攀者に関する私の周りの見解だった。

 

「へぇ、すごいね」だから私は、こう曖昧に返すしかなかった。

 

「でね」彼女は構わず続けた。「アタシは壁の向こうをさっと眺めて、で、帰ってこようと思ってるの」彼女は、通りの先をまっすぐに見据えた。

 

「そうなんだ」私にはその意味するところがよくわからなかったが、彼女にとってそれは大事なようだった。「帰ってきて、そのあとはどうするの」私は訊ねてみた。

 

想定していた返答とは違ったようで、彼女は一瞬びくっとした。「そのあとどうするか、か……」暖かい春風が、足元の雑草を揺らした。彼女はしばらく考え込むと、答えた。

 

「壁の向こうがどんなだったか、みんなに教えてあげるの。みんな、向こうの様子は知りたいだろうから」

 

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私はとっておきの機械に思い当たった。両親の工場がまだそこまで有名でなかったころの主力製品、カメラ。これがあれば、壁の向こうの様子を、より鮮明に伝えられる。

 

私は説明を試みたが、彼女にはうまく伝わらなかった。「つまり、アタシが壁の上で絵を描くっていうこと?」彼女の理解はこれが限界だった。

 

実物を見せた方が早いと思い、私は彼女を家に上げることにした。親方は幸い、部品の買い出しで留守にしていた。彼女は機械を全然見たことがなかったようで、ありとあらゆるものに興味を示していた。私はその間に二階の自室に入り、棚からカメラを取り出した。

 

私が戻ると初めて、彼女は私がどこかに行っていたことに気づいたようだった。私は彼女を連れて二階のベランダに出ると、カメラのシャッターを押した。「しばらく待ってね」私は言うと、カメラから出てきた紙の画像が鮮明になるまで、この場所を紹介して回ることにした。

 

私の説明に、彼女は興味津々だった。嬉しいことに、彼女が一番の興味を示したのが、私の望遠鏡だった。「この筒は? 何ができるの?」

 

「遠くが綺麗に見える。例えば、遠くの建物とか」私は言ってから、彼女が登攀者なことを思い出した。「あと、壁とか」

 

「へぇ」彼女の顔が一気に真剣になり、私はまずいことを言ってしまったかと思ってひやりとした。「壁、見せてもらえる?」彼女は真剣なトーンで、訊いた。

 

私は望遠鏡の位置とピントを調整して、西側の壁を映した。「覗いてみて」

 

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しばらく眺めると、彼女は言った。「これ、別の場所は映せる?」私は彼女に、位置の調整方法を教えた。

 

彼女は視界を動かし、何かを見つけたようだった。彼女はその位置から、視界を垂直に上に動かしていった。途中何度も頷きながら、真剣な顔は全く崩さなかった。

 

やがて彼女は望遠鏡から目を離すと、安心したような顔で、「よし」とつぶやいた。先ほどまでとは打って変わって小さな声だったが、その奥には確かな決意を感じた。

 

「何か分かった?」私は訊いてみた。私の望遠鏡で何かが分かったなら、これを完成させる私の努力には意味がある気がした。願わくば、彼女に何か有益な情報を与えられますように。

 

彼女は私の話など聞いていないようだった。そして、答えの代わりに返ってきたのは、私をはるかに喜ばせる言葉だった。

 

「ねぇ、これ、北東の壁も見られたりしない?」