壁の向こうへ 第一話

壁のひび割れに手をかけ、アタシはえいやと身体を持ち上げた。

 

「うん、いつも通り」足場で見送る教官にだけ聞こえるように呟いて、アタシは登り始めた。むしろ、いつもよりも軽快なくらい。

 

これからアタシが成し遂げることを考えたら、身体だって軽くなるに決まってる。もっとも、ハーネスと命綱がないぶん、実際に普段より少し身軽ではあった。でも、それ以上の興奮が、アタシの身体にはみなぎっていた。ついに、この時が来たのだ。

 

高揚の中、アタシは登り始めた。ルートは身体が覚えていた――途中までは、練習で何度も登ったルートだ。この壁を登りきった人はいない。いないなら、アタシが一人目になればいい。

 

今日は、この世界の記念日。アタシは、歴史に名を刻むことになる。完登を告げる笛の音を、世界中に鳴り響かせてやるんだから。

 

あるいは。

あるいは、今日は、アタシの命日。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

アタシが登攀者になるのは必然だった。アタシより運動神経のいい奴なんて周りにいなかったし、いるなんて考えたこともなかった。

 

物心もつかないうちから、アタシはあらゆるものに登りまくっていた。二歳の頃に街路樹に登り、四歳の頃には三階のベランダから家に出入りしていた。両親によれば、右足に残るアザは、乳児の頃に脚立から落ちてできたものらしい。

 

アタシが高所を伝って勝手にどこかに行かないように、両親はあらゆる手段を使った――そして、アタシは常に文字通りその上を行った。家の窓という窓に鉄格子がつけば、アタシはそれを手掛かりに屋根に登った。家の木の横枝が全部切られれば、アタシは屋根から木に飛び移った。アタシが六歳の時に登攀者のスカウトを受けなければ、きっと家の地面以外の全面が壁で囲まれていただろう――そして、その壁の上にアタシは仁王立ちして笑っていただろう。

 

登攀者の訓練施設では、街中から運動神経のいい子が集められていた。すなわち、アタシよりだいぶニブい奴らが。登攀者というのはものすごい人だと信じていたアタシは、このとき初めて、自分の才能を自覚した。なんだ、登攀者ってこんなもんか。

 

すごい勢いで昇格試験をパスしていったアタシは、史上最年少で最後のクラスに所属することになった。このクラスを抜ける方法は二つだけ――怪我をして引退するか、年に一人の登攀者に選ばれるか。

 

そこでアタシは、初めてアタシに肩を並べる才能を目にした。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

登攀は順調だった。練習で使っていたルートが終わってからも、これといって困ったことはなかった。どの足場にどの足をかければいいか、何十メートルも先まで手に取るように分かった。この程度なら、スカウトされたてのアタシでも登れる。

 

進むごとに、ある疑念が強くなっていった。これなら、なんでお兄ちゃんは失敗したんだろう。お兄ちゃんじゃなくても、こんなの簡単なはずなのに。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

「誰も落ちてはこなかった」と教官は言った。

 

お兄ちゃんの登攀の日。めったにない才能を無駄にしないように、教官たちは例年になく気を遣って日程を選んだ。風のない、曇りの日。登攀には絶好のコンディションのはずだった。

 

しかし運命の悪戯か、途中で天気が急変した。急な雷雨に、地上から見ていたアタシたちも屋根の下に戻らざるを得なかった。よりにもよって今日。日程を決めた教官の真っ青な顔を、アタシは今でも鮮明に覚えている。

 

それでも、お兄ちゃんは雷雨程度で失敗するような人ではないとみんな信じていた。完登の笛の音は聞こえなかったが、この雷雨では無理もない。教官たちの見立ては、お兄ちゃんは成功しただろう、ということだった。失敗した証拠はないから。

 

「彼は壁の向こうを探検することを選んだ」訓練施設のみんなの前で、教官はそう宣言した。

 

でも、アタシには信じられなかった。だって、だって。

お兄ちゃんは言ってたから。

 

成功したら、必ず帰ってくる、って。