※これはフィクションです
メッセージの送信を確認して、俺は携帯を投げ捨てた。服を脱いで風呂場に向かい、シャワーの水量を全開にすると、俺は顔を打つ痛みに身を任せた。
あれが最後の彼女だった……といっても、とても付き合っていると呼べるような状態ではなかった。最後に連絡を取ったのは半年も前で、向こうが俺を覚えているかすら定かではない。それでも俺から別れの連絡を入れたのは、一種のけじめだ。俺が、ナンパを引退するという宣言だ。
――――――――――――――――――――――――――――――
俺がナンパを始めたのは、今からちょうど三年前の春のことだ。当時の俺は、彼女が欲しくて仕方がなかった。だが、恋愛などまともにしたことのない俺にはどうしていいか分からなかったし、そもそも身の回りに気になる相手もいなかった。高校時代に密かに想いを寄せていた相手はいたが、とうに期を逸していると気づかないほど俺は愚かではなかった。
そんな時、サークルの先輩がナンパ師をやっているという情報を耳にした。曰く、界隈で有名なナンパ師なようで、ナンパの心構えを記した有名ブログまであるのだとか。曰く、ナンパにかかる金はブログで稼いでいるからむしろ儲かっている、だとか。
俺に相手がいないのは、俺が探しに行かないからだ。そう思って弟子入りを志願すると、先輩は快諾してくれた。
「僕でもできるでしょうか」弟子入りする日、俺は訊ねた。
「恋愛は百パーセント、テクニックだ。誰でもできる」先輩は自信ありげに答えた。
そうは言っても、先輩のオーラは別格だった。「先輩みたいになるには、僕はまずどこから始めればいいんでしょう」圧倒されながら、俺は訊ねた。
先輩はしばらく考えて、言った。「まず、その『僕』ってのをやめるところからだな」
「まず、純愛という幻想を捨てねばならん」これが先輩の第一の教えだった。恋愛には明確なテクニックがあり、そのテクニックに忠実に従わなければならない。そのためには、相手をひとりの個人として見てはいけないのだ、と。
最初のうちは戸惑ったが、慣れてくると簡単なものだった。相手の顔を見て、最も適切な言葉をかける。押すところは押し、引くところは引く。「一挙手一投足に気を遣え。モテるやつには理由がある」その通りだった。俺の意図した通りの反応を相手が見せると、俺は勝ち誇ったような気分になった――もちろん、それを表情に出さない訓練も積んでいた。
以降、先輩の言うことはなんでも聞いた――我ながら、いい弟子だったと思う。化粧を覚えた。何股でもかけた。恋に恋する態度に、俺はとことん真剣に向き合った。
自分の成長を実感して、俺はナンパが楽しくてしょうがなかった。鏡の中の自分が、毎日魅力的になっていくのを感じていた。これはひょっとすると天職かもしれない、俺はそう感じ始めていた。
ある時、いつものように繁華街を出歩いていると、俺はよく知る姿を目にした。髪型こそ変わっていたが、一目で気づいた――高校時代に密かに想いを寄せていた彼女だ。ほんの出来心から、俺は彼女にナンパを仕掛けてみた。
……あっけないほどに、簡単だった。気味が悪くなって、俺は夜が明ける前に逃げた。
――――――――――――――――――――――――――――――
ふと、俺は気になった。俺が逃げた後、彼女はどう思っただろうか。ナンパ師としてのテクニックは、その問いに答えてはくれない――俺の行動は、明確な目的のあるものではなかったから。「自分の意志は捨て、関係性を制御し続けろ」あの行動は、明らかに、先輩の教えを逸脱していた。
――――――――――――――――――――――――――――――
この話を打ち明けると、意外にも先輩は喜んでくれた。好きだった人に途中まででもルール通りに立ち向かえたのは、お前が成長した証拠だ、と。「もうお前に教えることはないかもしれないな」とまで先輩は言った。でも俺は、俺の中で何かが壊れたのを感じていた。
その後も俺はナンパを続けたが、以前ほど身は入らなかった。もっとも、俺は上達したから、ナンパ自体は順調に進んでいた。ただ、相手が狙い通りの反応を見せても、俺は以前ほど楽しいと思えなくなっていた。
半年前。「恋に恋せなくなってしまったかもしれません」いい男を演じ続ける目的を見失って、ついに俺は先輩に打ち明けた。
「じゃあ、潮時かもな」どこか他人事のような顔で、先輩は言った。自信に満ちていない先輩の顔を見たのは初めてだった。「恋愛を諦めきれるんなら、別にそれはそれでいいんだ」
――――――――――――――――――――――――――――――
今別れのメッセージを送った彼女とは、もう会うことはないだろう。元想い人の時とは違って、俺は関係性を制御していた。俺は、俺のテクニックを総動員して文面を考えた。彼女が二度と俺に会いたいとは思わないように。
俺は最後には、ナンパ師として正しい態度を取れた。意図を持った文章を送ることから逃げなかった。これだけは誇ってよいだろう。涙を大量の水で洗い流しながら、俺は考えた。だが、純愛を切り捨て、恋に恋することもやめた俺にとって、それに何の価値がある?
先輩は最近結婚し、子供が生まれるという。ナンパで知り合った相手だ。その点、俺は先輩には敵わなかった――テクニックに一生を捧げる覚悟を、俺はできなかったからだ。
シャワーをずらして、俺は鏡を見つめた。シャワーに打たれ続けた後でも、目が真っ赤に染まっていても、それでも映っているのはいい男だ。鏡の中に、あの日の『僕』はもういない。
俺は。
僕は。
俺には。
俺には、これくらいがお似合いだ。