サイレント ①

車椅子が空を飛んでいる。

 

夏至。太陽が一年でもっとも高く昇ったこの真昼、ぎらつくような陽光を乱反射して、雲ひとつない青空を背景に、その車体は浮かんでいる。まるで飛ぶことこそが車椅子の本当の機能であるとでもいうふうに、堂々とした態度で空を支配している。

 

逆光のせいか、車椅子に乗る人物の顔はよく見えない。だが間違いなくそこに生身の人間が乗っているということや、その人間が十代後半の髪の長い少女であること、そして彼女が生きているばかりではなく、身体にはかつてないほどの元気を湛えているということは、この地上からでも簡単に分かる。

 

彼女を取り囲むように浮かんでいるのは、素材不明の平坦な板である。前後を除く四方向に、いずれも彼女のほうを向くように浮かんでいる板は、彼女の乗っている車椅子と並行して、等速直線運動をしている。持ち主の動きに合わせて小刻みに揺れる車椅子本体と違ってそれらの板は不気味なほどに安定しており、光の反射の加減でそのことが見て取れる。どういう仕組みなのかはまるで分からないけれど、あの四枚の板が空中の車椅子を支えていると考えて間違いはなさそうだ。

 

彼女が楽しそうに両手を掲げ、両肩を綻ばせてなんらかの意図を伝える。と、たちまち前後に新しい板が現れ、同時に左右にあった板が消滅した。車椅子は九十度方向を変え、そのとき一瞬だけ、彼女の横顔が見て取れた。こちらにまで声が聞こえてきそうなくらいの満面の笑顔、飛び散る汗で頬に張り付いていた髪の毛が、また舞い上がる。

 

「あそこ」口の動きは分からないが、こちらからはそう言ったように見えた。まっすぐに手を伸ばし、どこかに向けて指をさす。「あそこに行って」ふたたびの方向転換。その先には、この街のシンボルマークにもなっている、高い丘がある。

 

彼女はことばを話せない。

 

声帯に異状があるわけではない。ほかの多くの子供と同じように小さい頃の彼女は泣いたし、笑った。二歳半になってもひとことも口を利かなかったけれど、子供というものがどういうふうに成長するのかをまるで理解していなかった両親は、それがなにか重大なことであるとは思っていなかった。

 

彼女はことばを理解していない、そう両親が気づいたときにはもう手遅れだった。地元の大学病院でいろいろな検査を受けたけれどもなにが起こっているのか分からず、彼女の症状に興味を持った研究医が数か月間つきっきりで観察したけれどやっぱり原因は不明で、彼は両親を前にすると口癖のように、「彼女は言語のない環境で育ったとしか考えられない」と言っていた。そんなことを言われても、両親としては普通に生活していただけで、そんなに変わったことをしていたつもりはないので、埒が明かなかった。