感情試薬

もともとそうであったのか、あるいはそうあるべく望んだからなのかは定かではないけれど、おそらくわたしは少しばかり、感受性に乏しいようだ。けっして自慢するわけではないのだが、物語のいわゆる「泣けるシーン」を見ながらとくに感動することもなく、なんだか冷たい気恥ずかしさだけを感じているということが往々にしてあるのだ。

 

自慢ではないと言っても、べつにそれは恥ずべきことでもない。泣けるシーンを見て「ああ、よくある死に別れだなぁ」と思っていたとしても、作られた巨悪を前にして大した憤りを感じなかったとしても、あるいは現実の災害や戦争の映像を見て、そこに悲惨さを見出さなかったとしても。そう感じるということはあくまで事実であり、そう感じるのがわたしの感性な以上、わたしは自分自身の感性と付き合っていくしかない。

 

幸いなことに、世の中はわたしのような人間にやさしくできている。世のあらゆることに感情を動かされていてはまともに生きるのにも支障が出るけれど、逆はただ自分がつまらないだけだ。つまらないなりに生活を送ることはできるし、たまに自分をひとでなしのように思うことがあるとはいえ、それとて別に、感受性の乏しい心を傷つけるようなものではない。

 

だからこそ、それを超えてくる創作物は素晴らしい。わたしという分厚い皮を超えてわたしの内奥に響くということは、その作品が惹起する感情がそれだけ強いということを意味している。感動させられるものならさせてみろとわたしは挑みかけ、そしてその挑戦を打ち破ってもらう。それができる作品は、強い。

 

そういう経験を求めて、わたしは作品を摂取する。わたしのような無感情な人間にとって、作品とはおよそ日常生活では得難い、感情なるものを補充してくれる存在であるわけだ。感情という時点ですでにありがたいから、感情の中身はなんでも構わず、喜びでも怒りでも悲しみでも快楽でも、強くさえあってくれればそれでいい。なんだか麻薬中毒者のような発言だが、まあとにかく、強さを欲するのがわたしである。

 

さて。わたしの感情を動かす表現とは、きっとそれだけ強い表現だ。だからわたしという存在は、表現の強さを測るための試薬としての機能を持つ。わたしが行う表現に関してもきっとその試薬は便利で、わたしが作るストーリーがもしわたしに何らかの感情を惹起したのならば、その物語はきっと、強い物語だということになる。

 

作者は心を削って話を書く、とよく言われる。書くとはつまり、自分自身の感情と対峙するいとなみなのだと。それはもしかすると、自分自身を試薬にせよ、という意味なのかもしれない。強い話を書きたければ、書いている自分自身の心を揺さぶるものを書け、と、そう言うことだったのかもしれない。