数学英語は簡単? ①

わたしは英語が嫌いだ。一刻も早く、この世界語とやらを排した生活を送りたい。慣れ親しんだ母語が別にあるのにもかかわらず、どうしてわざわざこんな不慣れな言語を使って疲弊しなければならないのか。こんな不自由で不公平なコミュニケーションツールのいったいどこがいいのか、わたしはいまだに納得していない。

 

けれど思い返してみればもう十年以上、英語は生活の一部だった。プログラミングコンテストの問題文だってゲームのルール説明だって、多くを英語で読んでやってきたのだ。そして現在、わたしは研究に英語を使っている。読むべき論文はみな英語だし、書くのももちろん英語だ。

 

そのすべてが母語でできたのならどれだけよかっただろうと、夢想することはもちろんある。あるいは技術の進歩により、すべてを日本語能力でカバーすることができたのなら。最近になってようやく技術はわたしの求めるレベルに近づきつつあるけれど、それまではとうてい、機械は実用的ではなかった。自動翻訳というサービスはあるにはあったが、とても正確に読んだり自由に書いたりできるレベルには達していなかったのだ。

 

だからわたしは、英語を真面目に読み書きしなければならなかった。後世のひとが読んだときのために念のため断っておけば、ここでいう「真面目に」とは、機械に頼らずに自分の知識だけで英文を扱うことを指している。

 

そういうわけで、わたしはすこしは英語ができる。だからと言って好きになるようなものでもないし、むしろできないと潔く言い切ってしまいたいところだけれど、できるものはできてしまうのだから仕方がない。英語を使わねばならぬ時代に青年期を過ごした以上、望むか望まざるかによらず、ひとは勝手にそうなってしまうのだ。

 

現にわたしはいまでも、数学の問題文や証明を英語のまま読んでいる。もちろん、そうするのが好きだからではない。AI が信頼できないからでもない。数学的な英文を読むことに慣れてしまう時代背景がわたしたちにはあり、だからこそわざわざ自動翻訳にかけるより、英語のまま読んだほうが早いのだ。

 

……と、思ってはいたものの。

 

「数学の英語は簡単だ」。最近まで、それがわたしの持論だった。小説やニュースの英文と違って、数学のは厳密だし構文が取りやすい。だから数学をやるだけなら、英語が苦手でも意外となんとかなる。

 

「数学で出てくる英語はたしかに、英語の見た目をしているかもしれない。けれど分かりやすさという面ではまったく日本語と変わらないのだ」――そうわたしは信じていたし、口に出してもいた。

 

けれど最近、その信念が崩れようとしている。原因はもちろん、翻訳AI の発展だ。