汚言規制

だれかがだれかの愚痴を言っているところを見て、こちらまで不快な気持ちになる。自分のことを直接言われているわけではなければ、遠回しに責任を追及されているわけでもないのに、なんだか恥ずかしくて居心地が悪くなる。そんな経験はきっと、だれもがしたことがあるはずだ。わたしにはあるし、そしておそらくはわたしも、他人にそう思わせたことがあるはずだ。

 

悪口にはそういう種類のものがある。だれかを悪く言うということそのものがどんなときでも不快なわけではないけれど、不快にさせる場合もあることは事実だ。すべての悪口を規制しようというのは早計だけれど、それでもある種の悪口は、きっとこの世に存在しないほうがいい。

 

一方で、面白い悪口もある。不謹慎ながらもその場のみなが笑い、後腐れなく消化される悪口だ。イジリと呼ばれる類のものがこの最たる例で、場合によってはいじられている本人ですら、自分が悪く言われるのを聞いて喜んでいる。喜んでいるように見えて喜んでいない場合はもちろんあるし、そういうケースに最大限配慮するのが道徳的態度とされてはいるけれど、とはいえ本当に喜んでいるケースだって存在はするのだ。

 

面白い悪口と、不快な悪口。当然気になるのは、これらの違いがどこから来るのかということだ。それさえ分かればわたしたちは、悪口を純粋な娯楽として使うことができる。いっさいの人権上のリスクと、場を凍らせるという危険を避けながら、ひとをいじって笑うあの喜びを分かち合うことができる。

 

そして残念ながら、この違いはあまり明らかにされていない。悪口の善悪を分かつ線は、おそらく明確に見えるようなものではない。だれかが心地よく思ったものはほかのだれかにとっては不快だし、だれかが不快に思ったものもほかのだれかには面白いかもしれない。

 

だからこそ社会は悪口を規制する。ひとを傷つけ、好ましくない空気を醸成するリスクのそれなりに高いものは、一括で規制してしまった方がいいというわけだ。笑いが欲しいのなら、悪口以外にも手段はある。わざわざ危険な手段に頼らねばならぬほどのものではない。だから面白い面白くないに関わらず、悪口は言わないのが道徳的な態度だ。悪の可能性を摘み取るためには、その周りの善を少々、刈り取ってしまっても致しかたないというバランスで、社会は回っている。

 

しかしながら人間は、社会のためのルールに厳密に従うような生き物でもない。だからこそ、悪口は生き残り続けている。言わないほうがいいのだと言いながら、ひとは愚痴を言う。そしてそのいくらかは、存在しても構わないほうの汚言である。