怠惰も罪

繊細さとは克服すべき弱さである、そう昨日は書いた。些細なことで傷つく精神性は、もし持っているなら修正すべきであると。他人に押し付けるような考えではないとはいえ、すくなくともわたし個人は、そう志して生きようとしている。

 

志すというとなんだか意識の高いことに聞こえるが、実態はそうたいそうなことではない。すべてをひとのせいにする前に自分の感情を反省して、心の持ちようでどうにかできる部分があれば改善しようという当たり前の話だ。これを当たり前だと思わないひとが世の中にいる(というか、そうでなければ説明のつかない事象がある)ことは知っているが、わたしはその一員にはなりたくない。まずダサいし、それに生きづらそうだからだ。

 

さて。そう考えることで自分を完全に律せるかといえば、もちろんそうではない。いくら厳重に内省を繰り返しても傷つくときは傷つくのだ……というのは事実だろうけれど、そういうことを言いたいわけでもない。弱点は、もっと簡単なところにある。繊細さを罪だと考えてみずからを律したところで、繊細さ以外の罪を犯すことからわたしは逃れることができない。

 

たとえばわたしは怠惰である。手続きは先延ばしにして、いつも締切を過ぎる。催促されて、それだけひとに迷惑をかける。整理整頓は苦手だから、ものは机の隅に押しのける。くしゃみが出始めるまで掃除はしない。家から出るのは億劫で、運動不足で、きっと生活習慣病まっしぐらだけれど、対策を練ろうという気すら起こさない。朝は起きられず、満員電車は嫌いだ。会議やセミナーではいつも寝ていて、最近ではもう、登壇者の話を聞こうという態度すら見せずにいる。

 

その怠惰をわたしは直す気がない。直す気がないことを怠惰と定義するのかもしれないが、まあどちらでもいい。わたしは怠惰で、自分が怠惰であることを客観的事実として受け入れていて、それを自ら律しようなどという気はさらさらない。怠惰は罪だとは思っているし、エンジニア以外にとっては昔からそうであることも知っているが、犯罪とはかならずしもやってはならぬことではない。

 

繊細な人間と、その意味でわたしは変わらない。自分が繊細であると知りつつも、感じかたを矯正しない人間と。みずからの工夫不足を棚に上げ、刺激的なものを見せる社会を糾弾するその姿は、そのままわたしに重ね合わせることができる。「髭を剃るのが面倒だから無意味に顔出しを要求するな」と文句を言う前に、脱毛でもなんでもしてみたらどうなんだ。その意見はいたって正当だとわたしは知っている。知っているが、わたしは文句を言い続ける。

 

繊細と怠惰。一緒にしたら怒られるだろうけれど、これらはよく似た構造を持っている。罪であると認識するのは簡単で、それを直すのは少しむずかしくて、けれども不可能では決してない。直したほうが人生はうまくいくが、直すかどうかはひとによる。だれかが直さないことを選択したなら、他人はそれを尊重しなければならない。考え直すことを求めるのは、内心の自由の侵害だ。

 

その意味で、もしかすれば。繊細さを捨てないひとの感じかたを、わたしは怠惰から類推できるかもしれない。