サボってる

暇かと思えば忙しく、慌ててみるとやることはない。締切があるから仕事を減らし、期日間近に寝転がる。予定のどれを終わらせるのも本気を出せば簡単で、けれど本気は大切だから、なるべく出さずに済ませたい。すべてのことをまったりと終わらせ続けてはや数年。約束はいつも守ってきたからだれにも迷惑はかけないけれど、まわりを見るとどう見ても、もっといろいろやっている。

 

他人とはすごく見えるもの。わたしをはるかに超えてなお、いろいろ成果を出すひとは、いるにはいるけど多くない。きっと人類のほとんどは、怠惰にまったり働いて、とってもゆるい締切に、追われたふりして楽をする。働いている人間のだれに聞いてもこたえはひとつ、忙しくって時間がない。はなしを聞くと間違いなく、時間と気力を費やしている。時間の長さは共通だけど、気力の量はばらばらで、かれらのような働きかたを、わたしはできると思えない。

 

けれどいざ、ふたを開けてみれば。論文の数、発表の回数、どれもわたしと大差ないか、わたしのほうがよっぽど多い。まあもちろんのこと一部には、とてもかなわない相手もいるけど。

 

考えられるケースはふたつ。ひとつ、みーんなサボってる。おそらく妥当な解釈だ。すべての時間を費やして、すべての気力を注ぎ込めば、ひとは絶対これくらい、終わらせるのに困りはしない。学生のころ聞いた重いレポート、実験の授業の後始末、どれもだいたいそうでもないし、運が悪いとも思わない。

 

もうひとつのケースはこれ。わたしがどうやら、要領がいい。サボっているのはわたしだけ、けれどなぜだかサボってもこれまで苦労はしていない。もしかするとわたしには、なにかをサボる才能があって、だれも知らない方法で、人生を楽にして生きている。

 

不真面目はきっと美徳だ。やらなくて済むすべてのことをやらないままに立ち去って。罪悪感に耐えている、そんなつもりはないけれど、わたしはそうと知らぬ間に、罪だとされることをする。だけれどその罪とあっては、外から見てもわからないから、わたしが罪だと思わなければ、なんの罰にも当たらない。

 

わたしはなにもしていない。できる範囲のことをして、したくないことは無視をする。そんな身勝手でどうにかなるとは到底思ってないけれど、現にそうして暮らしていても、とくに問題は生じない。まわりと一緒にサボってるのか、わたしひとりがサボってるのか、区別などつきそうにない。それでもわたしはサボってる。結果が出てても、サボってはいる。わたしがサボりと思うことが、だれかにとってのクソ真面目、なんてことはさすがに、ありえないとわたしは思う。