承認欲求を礼賛せよ

十年前、承認欲求とは恥ずべきものだった。不特定多数の人間からもらう反応なんて、自慢するようなものではなかった。画面の向こうの存在にひとが承認を求めるのは、現実から逃げている証拠だった。現実世界ではだれにも構ってもらえないからこそヴァーチャルの世界を心の拠り所にする。そんなのは、哀れで仕方のないことという扱いだった。

 

ネットでのつながりが、まだ真のつながりとはみなされていなかったあの頃。孤独なひとの美学は孤独を誇ることであって、紛らわせることではなかった。あるいは自分自身のみじめさを理解して、傷を傷と分かったうえで舐め合うか。孤独に対する回答はふたつにひとつだった――受け入れるか、孤高へと昇華させるか。

 

五年前、承認欲求はやはり恥ずべきものだった。けれどだれかが、それはおかしいと言い始めた。承認欲求とは、だれもが持っている根源的な欲求。それを恥ずべきなのは理にかなわない。そんな認識はちょうどあの頃に、ゆっくりと浸透していっていたような気がする。不特定多数に認めてもらいたいという気持ちとは人間のありのままの気持ちなのだから、隠すべきではないとひとは思いはじめた。

 

現在、承認欲求はもはや隠すものではなくなった。フォロワーが何人いるとか、いいねがいくつついたとか。チャンネル登録者が何人増えて、合計で何人になったとか。そういう数字は、以前から可視化されていたものではあるものの、最近になって重要性を増した。バズった、日間ランキングに載った。そういうことをアピールするのは、もはや下品なことではなくなった。

 

たくさん拡散されたツイートに、自分の宣伝をぶら下げる文化。初心者だと言い訳してアップロードする絵、そんな下手くそを肯定する慣習。バズりたいという欲求と、それを叶えるためのテクニック集。そういうものはきっと、いいものに違いない。承認欲求とは、だれにでもある欲求なのだ。人類の総幸福量を増やすことがよいことだと仮定するならば、みなが共通して持っている価値観は肯定したほうがいい。

 

けれども。どうやらわたしは、旧世代の人間なようで。承認欲求を無条件に肯定する、いまの風潮が好きになれない。そのほうがいい社会であることだって分かっているし、自分にも承認欲求があることも分かっているのだけれど、やはりなかなか言う気にはなれないのだ。フォロワーの数を増やしたいか、何千人を目指したいとか、そういうことを。

 

繰り返すが、わたしは間違っている。承認欲求は存在するのだから、認めたほうがいいに決まっている。承認欲求ベースでこの世が動いているのなら、自分だって流れに乗ればいいということだって理解している。もっと言えば、自分の行動のうちのいくつかが実際に承認欲求に基づいていることだって、自覚している。

 

けれど、やはり。承認欲求万歳とは、どうしても叫ぶ気にはなれない。