英語ができれば、できるじゃない

英語ができれば、世界中のひとと話ができるじゃない。話をして、世界中に友達をつくれるじゃない。住む国が違えば性格も違うし文化も違う、ふとした考えが全然違う、その違いを自分自身の肌で感じることができるじゃない。見える世界が広がれば、それだけ人生が豊かになるじゃない。世界はきみの前に開けているわ、そしてそれを受け取るためにはたったひとつのことができればいいの。英語を話す、それだけでいいのよ。

 

日本ってほら、すごく閉鎖的な国でしょう。なまじ経済力はあるから、国内のことにしか関わらなくてもそれなりに生きていけちゃうんだけど、それじゃあもったいないじゃない。世界は広くて、いろんなひとたちがいる。分かって、日本っていう環境はものすごく特殊なの。この国の中だけで生きていて世の中を知ったような気になるのは、とっても偏ったものの見方。きみにはそんなふうな、視野の狭い人間にはなってほしくない。でも英語を話さないと世界は開けないの。きみは偏ったまま人生を終えてしまうの。怖くないかしら?

 

そんな甘言や脅迫を真に受けて、きみは英語を学ぶ。ううん。学ばされている、と言ってもいいかもしれないね。とにかくきみは中学生か高校生かのあいだ、いっさい疑問に思うことがなかった。英語というのはこのうえなく重要で、かりに勉強が面倒くさかったとしても、やらないのはまったく正しくないことだとね。

 

まあ、やらないのは正しくないということについては否定しないでおこう。数学や社会科や音楽や体育と一緒で、英語は重要だから中高で教えられている。三角関数と関係代名詞をくらべてどっちが重要だとか、そんな判断をしたってしょうがない。どっちも重要。なにせ、カリキュラムに含まれていることだからね。

 

けれどきみは英語というものを、カリキュラム以上のなにかだと思っていた節はないかい? それこそ、逆上がりより大切ななにかとして?

 

そしてきっと、きみにとって英語とは、世界という扉の鍵だったのではないかい? きみ自身がそれを手に入れるかどうかはさておき、最強の道具だったんじゃ?

 

とにかくそのことを、きみは疑問に思わなかった。そうだな。きみはきっと、初対面のひとと会話をするのが得意じゃない。けれど英語ができれば、世界中のひとと会話ができると信じていた。日本中のひとと会話ができるわけじゃないことは、何年も頭から抜け落ちていた。海外のひととする仕事を、きみはすごいことだと思っていた。海外には優秀なひとがたくさんいて、その仲間に加わることは文句なく素晴らしいことだった。きみのとなりにいる日本人だってものすごく優秀だということを、きみはやっぱり忘れていた。

 

英語は重要だ。けれど過大評価されている。英語を実際より重要にさせているのは、英語にまつわるいろいろな言説だ。世界という夢。人類の常識の一番大きな枠組みに従っていないことへの恐怖。漠然としたそれらの感情が、重要かもしれないけれど必要不可欠とまでは言えない国際性という幻想が。きみに、きみたちに、英語の価値を間違って見積もらせている。