校長先生の話

小学校のグラウンド。全校生徒が集められ、クラスごとに二列に並んでいる朝の八時半。前から後ろへ、そして向かって右から左へだんだんと高くなっていく頭の位置が、この群衆の中にやけに整然とした印象を与えている。直立不動ということはけっしてないし、身体を掻いたり足先をほぐしたりしている生徒だって多いけれども、小学生なるものの奔放さをもってすればそれでも、驚異的なまでの規律がある。

 

壇上にはひとりの老人が、彼らの視線を一身に集めている。すくなくとも、集めている風にふるまっている。威厳に満ちた声で、彼は訓戒を垂れる。昨今の時事問題になぞらえ、また最近の校内での話題を踏まえ、ゆっくりと、確かな声で話し続ける。

 

長年の人生経験を載せたその深く広いことばの数々は、次世代を担うだろう若者の心に響く。あたたかで確かな理解として、あるいはなんだか、妙に気に触れる不協和音として。理解に至ったことばは彼らの中で育ち、やがて来る青年期を通じて、彼らの身となり糧となってゆく。わからなかったことばはそのまま異物として残りつづけ、長い時が経ってからのある一瞬、元小学生は突如としてその意味を理解する。大人というもののもつ知見の深さ、人生経験の価値に、かれらはそこで気付く。

 

とかいうことには、まあ、基本、ならない。

 

校長先生の話とは結局、長くて退屈なものの代名詞だ。小学生にとってはもちろんそうだし、大人になった今でもそれは変わらない。それがやたらと長かったこととか、長すぎるから計ってみたその時間の数字とか、あるいは話の最中で貧血でぶっ倒れた同級生のこととかは憶えているけれど、話の中身はまったく覚えていない。そしてなにも、わたしが特別不真面目だというわけでもない。だってだれだって、きっとそうだろう?

 

つまるところ話したがりの老人とは、ただ単に迷惑な存在にすぎない。自分の人生経験を伝授しようとか、思想を伝えようとしているとかいう場合は特に、だ。彼らの頭の中ではきっと、彼らのことばはありがたいのだろう。重要なのだろう。その気持ちは分かる、だってわたしにだって、彼らのように語れてしまうことはあるのだから。けれどいかにありがたいからといって、そのことばが彼らの思い通りに、ありがたがってもらえることはけっしてない。

 

そのことはみな分かっているはずである。長い話に退屈な思いをしたことがないひとなんて、まずいないのだから。けれど、歴史は繰り返す。しかるに世の中は、傲慢で独りよがりな人間ばかりなのだろうか? 無為でつまらない話をさんざん聞かされておきながら、自分の話だけは違うと思い込んで、わかりきった退屈を再生産する人間ばかりなのか?

 

そうでなければ説明はつかない。だからきっとそうなのだろう。そしてわたしが将来、もしそんな怪物になろうとしているならば、誰かわたしを止めてほしい。この日記はそうなったときに、わたしを説得してもらうための刃物である。