退屈耐性

二時間目の授業が終わると一目散に校庭に飛び出し、十五分間の休みにドッジボールを満喫していたあの頃の元気はもう、わたしにはない。なにもわたしだけから行動力が失われたとかいうわけではなく、わたしのまわりにいる誰にだって、ない。大人とは基本的にそんな行動を取らない生き物だし、その理由だって別に、大人という存在はかくあるものだと社会が宿命付けたからとかではない。わたしたちは勘づいている、大人だからという規範意識とか世間体とか、仮にそういうものと無縁になれたところで、わたしたちはきっと遊ばないのだろうと。

 

若い頃に馬鹿にした世代。遊びといえば飲み会のことを指し、それ以外にいくらでもあるはずの楽しいことを自主的に遠ざけてゆく世代に、わたしたちは近づいてゆく。ひとがそうなってしまう理由を若い頃のわたしは不思議に思い、きっと大人になれば人と話すことがものすごく楽しくなるのだろうと無理矢理に推測していたけれど、どうやらそれも間違っている。大人はとにかく、遊びに貪欲ではないのだ。貪欲さを極限まで失いつつ、それでもなんとかやっていける遊びが、たまたま飲み会であるに過ぎないのだ。

 

さて。けれどまあ、遊びが好きすぎるままでいるのもそれはそれで面倒だ。中休みにボールを取り合い、競うように昼食を食べて外へと走る人間の相手を、いまのわたしはしたくない。静かにしててくれ、と多分思う。授業終わりの教室、淀んだ空気を入れ替えてちょっと息をつく暇くらい、与えてくれないか。

 

良く言えば、わたしたちは退屈への耐性を手に入れた。なにもしなくていい時間をなにもせずに過ごすということができるようになった。それを成長と呼びたくは正直ないけれど、定義上まあ、成長ではあるのだろう。じっとしているという能力が身についたのだから。

 

飛行機に乗って、降りる。イベント会場で、自分の順番を待つ。あるいは仕事は終わっているけれど、定時になるまで帰らないでいる。子供にとっては永遠だとされている時間を、いまのわたしたちは過ごせる。没頭できるなにかにその時間を充てることによってではなく、単に、なにもしないでいることによって。身に付けたくて身につけたわけではないだろうこの能力も、まあなかなかに便利なものだ。人生はたしかに楽しくはなくなったが、同時に楽にもなっている。

 

まあ、楽なのは、いいことだ。

 

どう楽しむかに頭をひねっていた子供は、どう楽をするかに頭をひねる若者になり、やがてどちらにも頭をひねらない大人になる。これまでに逸した機会の無数にあることをわたしたちは知っていて、楽しむにも楽をするにもこだわりがなくなってゆく。気づかず失っていたものの列に新たに何かを加えることに、抵抗がなくなってゆく。行動基準を決める理由として、面倒だからに勝てるものはないのだと学んでゆく。

 

その先の世界は、きっと味気ないだろう。全然、面白くはないだろう。けれど面白がることに興味を失った人間にとっては、それが一番いい。