余裕勢

忙しいとものを考えなくなるというのはなかなか本当のようだ。

 

しばらくの間締切に追われることが確定しているいま、わたしの頭の片隅には常に期限のことがあって、脳はなにかを深く考えようとはしない。締切が頭にあるからと言って作業をするのかと言われれば当然そんなことはないのだが、それでもタイムリミットは頭にあり続けて、仕事を進めもしなければ新しいことを考えもしないままにただ時間だけが過ぎてゆく。これこそ完全な無為。それならすべての義務を投げ捨てて、ただ布団にくるまって思索に耽っているほうがマシだと頭では分かっているけれど、分かっていてもできないのが人情というものだということはきみもよく知っているはずだ。

 

さて。博士課程学生の身分で卒業はおそらく余裕、つまりわたしはかなり暇な部類の人間だ。いまのわたしの忙しさは、社会に出て存分に歯車をやっていらっしゃる諸兄に比べればなんてことはないわけで。つまり逆説的に言えば、あと数年もすると一切ものを考えなくなる日々を何十年も過ごし続けることになるわけだけれど……まあ、自分がそうなっている姿はあまり想像したいものではない。考えることをすっかりやめてそれなりに楽しくやっている人間を、わたしは心底不気味だと思っていたのではなかったか。十年後のわたしがもし考えることをやめて、「子供は未来の宝」とか「遺された人が悲しむから自殺はよくありません」とか言っていたら、ひと思いに殺してほしい。わたしはきみに頼んでいるんだ。

 

だからまあ、実際に忙しいかどうかは脇に置いておくことにして、精神的には暇でいたほうがいい。「楽だと思ったら意外ときつかった」とか言って残業をはじめる人間にはなってもいいが、最終でもない締切を前に忙しい忙しいと連呼するような人間にだけはなってはならない。そして、自分の限界を知ろうとしてはならない。忙しいと脳が認識してしまうラインを超える前に、すべての仕事を断らなければならない。

 

はあ。現状のわたしはそうできているが。常に「キャパってる」と言っている人間を馬鹿にできているが。はたして今後もそういられるかどうか。頑張って完成させられるならそれでいいという考えで作られている社会で、頑張らずに済むだけの余裕を持ち続けられるかどうか。

 

きっとわたしは、ずっとそれが怖かった。おそらくは、高校生くらいの頃から。

 

ひとと比べてわたしが頑張れない人間だとは思わないし、成果を出さない人間だとはもっと思わない。誰かが締切前に徹夜で出したのと同じ課題を、ずいぶん前に余裕をもって終わらせている。そういう人生をこれまでわたしは送ってきたし、これからもそうできることを願っている。けれどそういう人生は正しくないという常識があるから、わたしはなかなか、わたしが考え続けられることを信じられない。