時代遅れのコーパス ①

コロナとはなにかと街行くひとにいま問えば、ほとんどのひとはウイルスのことを答えるだろう。何十人かに問えばひとりくらいはやれビールだとか太陽の周りにふわふわ浮いているやつだとか答えるだろうけれど、彼らとてべつにウイルスのことが思い浮かんでいないわけではない。彼らはウイルスを知っているし、答えるべき答えがウイルスであるとも知っている。知ったうえで、べつのことを答えている。決まりきったことを訊かれるとつい奇をてらいたくなってしまうのが人間というもので、要するにまあ、彼らは天邪鬼なのだ。大目に見てやってほしい。

 

さて、けれど。五年前にタイムスリップして同じ質問をすれば、彼らはべつに天邪鬼ではない。市井の人間はコロナウイルスなるものの存在を知らないし、知らないのだから答えようがない。彼らが知っているのはビールと太陽の周りのふわふわと、もしかするとコロナという名前のキャラクターだけで、コロナちゃんが嫁でない限りにおいて最初のふたつのどちらかを答える。少数の人間はチョココロネを指して「チョココロナ」とか言うだろうけれど、そう答えるやつだって別に天邪鬼ではない。ただ言語運用が苦手なだけだ。

 

このようにコロナという単語には、ここ数年で新しい意味が付加された。より正確に言えば、マイナーでほとんど誰も知らなかった意味が急に第一義に格上げされた。それと同時に、コロナという単語が与える印象はここ数年で大きく変わった。五年前のコーパスの中での意味はもはや、現代を生きるわたしたちには通用しない。コロナと聞いてまず最初に太陽の周りのふわふわを思い浮かべるのはもう不可能だ。かくしてひとつの単語の情緒が、社会によって大きく変えられたわけだ。

 

とはいえ、これまでの辞書が役立たずになったというわけではない。学術分野をはじめとした単語の情緒よりも正確な情報伝達を重視する分野では、これまでどおりの用法でことばを用いることができる。例えば天文学の論文の中に、コロナという単語が出てきたとしよう。それは太陽の周りのあれであって、ウイルスのことではない。ウイルスのことだと誤解する奴もいない。

 

もっとも読者はウイルスのことを連想しはするだろうし、だからその論文を読むという体験はコロナ前とコロナ後で微妙に異なるだろう。けれどそれは、大して重要なことではない。読んでいる最中に一瞬だけ別のものを連想するという体験は、論文から得られる知識になにかしらの傷をつけるものではないからだ。