調子は良い方がいい

久々に書くことが尽きた。というわけで、お決まりのことについて書くことにしよう。

 

どんなことにも調子の良しあしはある。調子の悪い時期が厄介なことは言うまでもない。これまで当たり前のようにできていたはずのことが、ふとできなくなる。できないからモチベーションが下がって、ますますできなくなる。あるいはできない中でもどうにかしようと足掻いて、余計に調子を崩す。体感としてもそうだし、たとえばプロ野球なんかを見ていても、不調の選手はもどかしそうにしている。

 

けれど調子のよい時期もまた厄介だ。というのも、そういう時期はそうでない自分を想像できなくなるからだ。これまでできなかったはずのことが当たり前のようにできるようになり、すっかりそれを習得してしまったと錯覚する。これまで向き合い続けてきた問題は霧のように消え、金輪際何の対策もしなくていいような気がしてくる。感覚だけですべてが上手く行くから、その感覚だけに頼る。

 

日記に書くことを思いつくということにもまた、そういう性質がある。調子のいい時期、わたしは普通に生活しているだけでテーマを一日に何個も思いつくし、実際にそれで文章を書ける。書きたいと思って書いているから、文章の中身だって濃くなる。そしてもう、放っておいてもいくらでも書くことなど思いつくのだから、翌日のために内容を残しておく必要なんてないような気すらしてくる。調子が悪い時期を何度も経験して知っている以上、それが上手く行っている時期特有の錯覚であることを経験的に理解はしているのだけれど、それでも覆せない気分というものはある。書けるのだから、わたしは書きたいわけだ。

 

調子の悪い時期は、まあ、今日だ。というより、最近だ。普通に生活していてもテーマは降ってこない。思いつこうとしたところで、なにも思いつかない。時折開き直って、今日みたいに書けないということについて書いたりするのだが、それにも限界がある。そんな干ばつ状態が何日も続く。たまに思いついたテーマを何日もこすり続けるから、文章の中身は薄くなる。そんな中身のない文章をわたしの名前で出すことを恥ずかしく思いながら、けれども仕方がないから公開する。

 

けれどおそらく客観的に見れば、日記の調子など悪い方がいい。

 

日記の調子が悪いことは、人生の調子が悪いことを必ずしも意味しない。というより、人生の調子が良ければ日記の調子はおそらく悪くなる。熱心な読者なら分かると思うが、日記のテーマというのはつまり、わたしが日中ひとりで悶々と考えていたことなのだ。そんな思考を続けることを調子が良いと呼ぶのなら、調子なんて悪い方がいい。

 

というのが客観的で合理的な判断だが、わたしはそれを内面化するだろうか。ひとりで悩むことをやめて、人生を生きることを望むだろうか。いや、それは違う。悩んで考えて、言語化してまた迷う。その繰り返しこそ、わたしは一番貴重な体験だと信じている。