ぼくのかんがえたさいきょうの問題解決

意思決定の場にひとが一定人数以上集まると、何も決まらなくなると聞いたことがある。一定人数というのは思いのほか少なくて、確か三人か四人かそんな感じだったはずだ。なるほど思い出してみれば確かに、簡単に終わると思っていたのに予想以上に紛糾した議論には覚えがある。とりわけ全員にやる気がある場合に、その傾向は顕著だ。

 

世の中にはものすごい数の人間がいるから、そこではもちろんものごとなど決まるわけがない。たとえ多くの割合の人間にとって興味のない話題でも、興味を持っている絶対的な人数はとんでもない。到底二人や三人では効かない全員が思い思いに発言するから、とても収拾なんてつきっこない。

 

というわけでわたしは何もしゃべらないことによって社会貢献を成そうとしているわけだが、本当にそれが貢献になっているかと言われれば疑わしい。選挙でひとりが投票することが誤差にしかなり得ないのと同じように、ひとりがしゃべるのを我慢したところで残りの大勢は依然しゃべり続けるのであって、じゃあなぜわたしが黙る必要があるのかと言われれば、まったく反論の余地はない。

 

閑話休題

 

社会の問題について基本的にわたしは黙っているわけだけれど、それはしゃべったところで到底受け入れられないからでもある。多くの問題について思うところはあるのだけれど、それはたいてい、以下のような経緯をたどってお蔵入りになる。

 

① 目の前の社会問題を根本的に解決する、具体的ですばらしく魅力的な策を思いつく。

② それが社会構造にどれだけの変化を要請するのか見積もってみる。

③ 無理だ。ハンコひとつ廃止できない人類に、そんな変化が受け入れられるはずがない。

 

そこでわたしは、現実世界とは成り行きの集合体であることを思い出す。いかにわたしの策が素晴らしく問題を解決しようが、それが現在とかけ離れている以上、社会はその状態には達しようがないのだ。

 

さて。現実はかように膠着しているけれど、フィクションの世界はそうではない。最近わたしは SF のショートショート集を読んでいるのだが、そこではなにか、社会問題の解決策としてわたしが妄想するものと似たような手順で生み出されたような世界が構築されていることがあるのだ。すなわちそういう作品は、きっと以下のように作られている。

 

① 目の前の社会問題を根本的に解決する、具体的ですばらしく魅力的な策を思いつく。

② それが社会構造にどれだけの変化を要請するのか見積もってみる。

③ 可能だ。それを実現するだけの科学技術と、人類がその策に従いたくなる状況を設定してやればいい。

 

主人公はそんな世界の中で、まあ色々と悩んだり事件を起こしたりする。その世界でしか発生し得ないそういう行動を描くのがおそらく作家の腕の見せ所だと思うし、実際にわたしはそういう点を SF の醍醐味だと思っている。けれどそれはきっと、わたしにできないことだからそう思うだけだ。作品の中には、世界を描くことそのことを主題に据えているように見えるものも多い。

 

それでいいなら、わたしでも書けるだろうか。まあ、試してみる価値はありそうだ。