I can't English.

太郎は激怒した。必ず、かの英語中心主義を除かねばならぬと決意した。太郎には英語がわからぬ。太郎は、日本人である。頭を下げ、ゼロリスクを信仰して暮してきた。けれども英語に対しては、人一倍に敏感であった……

 

……と、まあいろいろあって、太郎はアメリカの国際会議にやってきた。なんだか王様みたいな体格の白人が前でしゃべっていたが、英語なので当然聞いていなかった。スライドは出ていなかったのでそれが何らかの注意事項であることは理解できたが、まわりにほかに日本人はいなかったので、内容をまわりの誰かに確認することもしなかった。確認するには英語を使わなければならないのだから、当然である。

 

そのまま会議は始まり、言うまでもなく内容は分からない。つまり、眠い。日本時間だとしても起きている時間だし、早起きも夜更かしもしていなかったから、眠くなるのはおかしかった。けれどそんなことは関係ない。分からない発表の前では、人間の英気など完全に無力なのだ。何故寝たのだと言われても、世界各国選りすぐりの催眠術師たちがかわるがわるにしゃべっているんだから仕方がない。

 

太郎の意識は落ち、次に気づいたときには、会場は無人だった。

 

とりあえず外に出ようとして鍵のかかった扉をがちゃんがちゃんとやっていると、音を聞きつけた警備員が駆けつけてきた。「ここで何をしている」的な声が外から聞こえた気がしたけれど、もちろん英語だから太郎の推測に過ぎない。問答無用で太郎を射殺しようとしているのかもしれないし、今日の晩飯について話していただけかもしれない。どちらが正しいのかは知りようがない。情報がないのだから。

 

そうはいっても閉じ込められたままではどうしようもない。というわけで太郎は己の信念を曲げ、咄嗟に出てくる、挨拶以外ではほぼ唯一と言っていい英語で叫んだ。「ヘルプ・ミー、ヘルプ、ミー!」

 

なんか知らないけどドアが開き、屈強な男が現れた。

 

身長二メートルはあろうかというその男はめちゃくちゃ怖い顔で太郎を睨み、早口でまくしたてた。太郎にはもちろん聞き取れないが、なにかを言わないとまずそうだということだけは理解できた。というわけで彼は日本人らしく肩をすぼめて、へこへことお辞儀をしながら会釈を浮かべた。「オーケー、オーケー」と自分でもなにがオーケーなのかよくわからないことばを繰り返しながら、男の脇を抜けようとした。

 

"What?" 男は太郎の首根っこを掴み、威圧的に言った。

 

その瞬間である。太郎の怒りが爆発した。お前はネイティブだから英語が使えるかもしれないけど俺にはわかんねぇんだうんぬんかんぬん。いやむしろお前が日本語をしゃべれよオラ。デカいからって許されるとでも思うなよ。お前たちの仲間の話は全員眠いんだよそうだよ元はと言えばあのデブが英語でしゃべったせいじゃねぇか俺がこんなところに取り残されたのは分かったらさっさと俺を離せホテルまでのタクシーを手配しろ行先はお前があらかじめ伝えておけそうじゃないと俺はたどり着けないからマジで許せんなこの野郎。

 

太郎にはその感情をオブラートに包むつもりなど毛頭なかった。しかし彼は太郎である。日常会話すらおぼつかない奴が、英語で罵倒などできるわけがない。こういうときに使える万能表現であるらしい「ファック・ユー」の存在を彼は知っていたが、そのときは出てこなかった。太郎は日本語ならそれなりにできる。だからこそ、こんな複雑な怒りがそんな単純なことばで表現できるとは思わなかったのである。

 

えっ、その後だって? 警察に連行されたけど銃も麻薬も児童ポルノも持っていなかったので普通に解放されて、でも帰り道が分からないのでいまめちゃくちゃ困っています。めでたしめでたし。