催眠受験 ②

大学受験用の催眠は、あくまで脳に偽りの経験の記憶を植え付けるだけに過ぎない。もともとあった記憶を改竄したり、催眠を受けたという事実そのものの記憶を奪ったりといった、不可逆な操作をすることはない。もしそうなら、こんな技術が黙認されているはずがない。

 

おかげで俺は俺の記憶が偽りだと知っているし、どの記憶が作り物でどの記憶が本物なのかだって分かっている。中学生の頃にスウェーデンでホームステイをした記憶や、高校生の頃にボランティア団体を立ち上げた記憶を語りながら、俺はそれらが真っ赤な嘘だということをしっかりと理解している。存在しない記憶だと理解したうえで、思い出して語る。

 

だから俺は、変わらず俺でいつづけることができる……

 

……というのは、残念ながら建前だ。大っぴらに問題にして規制されてしまっては困るからか、あえて誰も口にはしないけれど、催眠を使ったことがある人間なら誰もが、自分が自分でいつづけることなどできないと知っている。

 

この一年で、俺は変わってしまった。俺が世界を見る方法は、偽りの豊かな経験の記憶によって変えられてしまった。豊かな経験からかならず得られる広い視野を、俺は手に入れてしまったわけだ。

 

催眠を受ける前、俺にとって世界と言えば学校の連中くらいのものだった。大人と言えば家族と、近所のおっさんと学校の先生。政治家と言えば……そういえば知り合いに町議会議員がいたっけ。東京はテレビで見て知っているけれど、あそこに俺が立っている姿は想像できなかった。

 

けれど催眠で、すべてが変わった。

 

俺は東京を知っていた。毛細血管のように張り巡らされた地下鉄の乗り換え方を覚えていたし、ビルの二十五階からの景色を知っていた。国内の政治や経済のニュースを見て、俺はスウェーデンでのそれと比較するようになった。催眠で作られた記憶の中にだけ存在する、スウェーデンという国の特徴と。

 

そんな記憶を得て、俺がそのままでいられるはずがなかった。俺自身が嫌な奴だと思っていた奴に俺はなった。友達とは自然と距離ができ、母は催眠を受けさせた選択を後悔して痩せていった。

 

でも。

 

「やっぱりやめた。俺はもとには戻らない」

 

一瞬の間があり、母は俺を突き飛ばした。痩せた身体のどこからそんな力が出てきたのかは分からない。とにかく俺は壁に衝突し、壁紙に穴が空いた。

 

「……どうして!」母が金切り声を上げる。

 

「元には戻れないんだ! 母さんだって分かるだろ!」

 

前々から薄々気づいていたことだった。けれど、はっきりと理解したのはそのときだった。催眠を解除して植え付けた記憶を消しても、そこから派生する記憶が消えるわけじゃない。何度も反芻した豊富な経験の記憶は、経験を反芻したという記憶の形をとって残り続ける。大元の記憶を消去したところで、面接でそれを語った記憶は消えない。偽りのスウェーデンを、日本と比較した記憶は消えない。

 

「忘れちゃえばいいじゃない、全部! 大学で記憶が必要なら、大学なんて行かなくていい!」

 

「そういう問題じゃない!」

 

今の俺は、スウェーデンに行ったことがないことを知っている。どれが作り物の記憶でどれが本当の記憶かを知っていることで、俺は自分自身の一貫性を維持している。けれどもし、作り物の記憶が失われてしまったら? なにが今の俺を形作っているのか、俺自身ですら理解できなくなってしまうのだとしたら?

 

俺は、怖い。豊かな記憶を失うことがではなく、俺自身を忘れてしまうことが。

 

俺は母を部屋の外に突き飛ばし、ドアをばたんと閉めた。外でなにかが崩れる音がして、止まった。荷物をまとめて、俺はベランダから外に出た。この街にはそれきり、二度と帰らなかった。