作られた笑い

笑いはタイミングが勝負だ。正しいタイミングで発されたジョークはそれがいかに陳腐だろうが面白いものだし、逆にタイミングを間違えれば、漫才大会の優勝ネタだって全然つまらなくなる。ひとを笑わせるために有効なのは入念に準備されたネタではなく、むしろ相手の話を聞いて、適切なタイミングでほんの少しだけ不適切な合いの手を入れることだ。

 

そんな簡単な笑いに味をしめたわたしは、陳腐なジョークをそれなりに言う。たいていは誰かに聞いたことの焼き直しだったり、とくに芸術的とは呼べない程度の文字数がかかっているだけの駄洒落だったり、ツイッターでよく用いられている定型文だったりする。そんなことでも流れを読んでさえいれば、けっこうひとは笑ってくれる。

 

けれど。そういう風にインスタントに笑いを取ることに、時折もどかしい気分を覚えることがわたしにはある。笑いとはこんなものじゃないはずだ、とわたしは思う。というのも、その手の笑いには創造性がないのだ。タイミングを読んだという事実を除いて、当意即妙さを競う競技に勝ったという事実を除いて、その手の笑いにはなにも残るものがない。

 

笑いの一部は創造的だ。漫才のネタはもちろんそうだし、ギャグマンガなんていうのもそうだ。ツイッターでたくさん拡散される投稿も、それらの多くがトレンドの話題にうまく乗っかっただけのものだとはいえ、一部は真に新しい笑いを創り出している。そういうものはきっと、高尚なタイプの笑いだろう。少なくとも、単なる当意即妙さのコンテストよりは。

 

さて、では。創造的な笑いとそうでないものの決定的な違いはなんだろう。そして逆に、どこなら共通しているのだろう。

 

笑いがタイミングである以上、創造的な笑いもまたタイミングが命だ。漫才のツッコミなんかがいい例で、適切なタイミングで妙にまともなことを言うからこそひとは笑う。それ単体で見れば単なる真っ当な反論かあるいは少しズレた反論でしかないものが、タイミングとトーンの魔力によって、笑いへと昇華される。

 

そして最大の違いは、創造的な笑いにおいてそのタイミングは仕組まれたものである、ということだ。

 

創造的な笑いでは、会話の中の笑いよりはるかに上手いことを言える。それは笑いを仕込むための時間があるからであり、その点だけを見れば創造性のほうが自由だ。けれど逆に言えば、創造性の側は笑いを仕込まなければならない。誰かの発言に乗っかるのではなく、自分でその舞台を作り上げなければならない。

 

そして何よりも不自由なのは、その舞台が作られたものだと皆が知っていることだ。

 

会話の中の笑いなら、舞台は自分の支配下にはない。その場にたまたま居合わせたという偶然性が舞台の正当性を担保してくれるから、自分はその舞台の上で面白くすることに集中できる。けれど創造において、舞台は所有物だ。会話の中ならば状況を妙によく表しているとされるだろう素晴らしい表現も、作られた舞台においては逆に、わざとらしさを感じさせる。

 

その意味で、笑いを作るとはギリギリを攻める行為だ。上手くなければならないが、上手すぎてわざとらしくはなってはいけない。どこまでが上手いの範疇でどこからがわざとらしいの範疇なのかは、作っている本人にはわからない。だからこそ、準備して笑いを取るのは難しい。

 

まあ。きっとそれは笑いだけの問題ではないだろう。自分から見て面白いものが、他人から見ても面白いかどうか。それは一般にわからないし、創作というものにはきっと、みんなそういう側面がある。