ひとの気持ちを分かった上で

わたしたちはいろいろなことを日々、分かったり分からなかったりしている。ほとんどの場合それらは文字通り「分かった」「分からない」ということを意味していて、言い換えれば目の前にある何かを、みずからの持つ理解の体系の中に組み込めたかどうかが重視される。

 

しかしながら対象が「ひとの気持ち」の場合、「分かる」が意味することは大きく異なる場合がある。対象が技術や論理やソフトウェアの使い方や、あるいは誰かの企ての意図である場合と異なり、気持ちを相手取るときに重視されるのは理解そのものではないのだ。そしてひとが「分かる」と呼ぶのは、ある意味では理解の先にあるなにかなのだ。

 

どういうことか。「ひとの気持ちが分からない」とわたしが何度も怒られたという事実から、このことを考えてみようと思う。

 

まずはじめに、理解していないこととは本来は怒られることではないのだ、ということを断っておこう。それは「ひとの気持ちが分からない」ことを怒られがちな幼少期にこそ重要なことで、要するに理解していないことは無能の証明でこそあれ、罪ではない。子供が理解していないなにかがあれば、大人はそれを成長の余地と捉えて、理解するまで教えるべきなのだ。ちょうど、九九を覚えさせるのと同じ要領で。それだけの辛抱強さを持ち合わせていない大人もいるが、幸いなことにわたしのまわりはそうではなかった。

 

一方、不適切な行動は怒られる対象だ。行動は周りの誰かあるいは何かを簡単に傷つけるし、放置していては治安の問題になる。単に理解していない場合と違って、間違った行動を取っていることは、怒ることで一刻も早くやめさせなければならない。

 

「ひとの気持ちが分からない」が怒られる対象なのは、おそらくそれが理解の問題ではなく行動の問題だからだ。ひとの気持ちを理解していないという状態じたいには問題はない。しかしながら、誰かを傷つけるのは問題だ。不理解が傷害を生むなら、まずは叱ってやらなければならない。

 

そしてここで興味深いのは、誰かを傷つける行動を取ることが、人の気持ちを理解していないことと得てしてイコールで結ばれていることだ。

 

それらが本当はイコールではないということは、少し考えればわかるだろう。誰かを傷つけることは、相手の気持ちを理解していないことを必ずしも意味しないからだ。何をすれば相手がどう思うかを完全に理解し、そのうえでもっとも効率的に傷つける行動を取る。それは間違いなく人間らしい行動であって、イコールの反例になっている。

 

つまりは。「ひとの気持ちが分からない」という概念は、清々しいほどの性善説の上に成り立っているわけだ。理解したうえで傷つける、そういう人間などいるはずがないという性善説。ひとがひとを傷つける理由は相互不理解以外のなにものでもありえず、互いが互いを理解すればすべての争いはなくなるという理想論。そのためにはひとにひとを分からせなければならない、という啓蒙思想

 

もちろんわたしは、その手の妄想が大嫌いだ。そんなお花畑は土足で踏みにじるか、あるいは毒虫の大群でも放っておけばいいと思っている。だからこそわたしは、ひとの気持ちを理解したいと思う。理解したうえで、突き放してやりたいと思う。

 

そう、わたしは。「ひとの気持ちが分からない」と言われてきた人間なのだから。