「科学」と魔法の相違点 ③

創作の中で「科学」として扱われるものは、魔法と呼ばれるものとある面では同じで、ある面では異なる。それらが似通っている点としてもっとも主要なものは、それらがどちらも空想上の存在に過ぎないことだ。創作の世界の外側に住むわたしたちから見れば、創作の中の「科学」は、魔法も同じく根拠のない応用技術を扱っている。

 

フィクションの中から見れば、それらはそれなりに異なる。魔法が存在しない世界では、「科学」はほとんどの場合わたしたちが科学だと思うものの形をしている。魔法と違って「科学」には理論体系があり、成立させるための具体的な構成があり、登場人物たちには原理が分からなくとも、それが何らかの原理に従って作られたものであるという確信がある。すなわち「科学」とは、実現可能だと定義された魔法のことを指しているわけだ。

 

魔法の存在する世界で、「科学」と魔法を分けるのは方法論だ。応用のモチベーションがほとんどを占める魔法技術と比べて、「科学」は基礎にも目を向けるわけだ。とはいえその違いは程度の問題で、「科学」に応用分野は存在するし、魔法学にも基礎学問は設定される。ただ一般的に、「科学」は起こっていることをより細かく解体し、起こしうることをより貪欲に実現しようとする傾向にある。反対に魔法は、解体と実現のプロセスを踏む前から、それなりに強力な傾向にある。

 

不可能性、という観点から両者を見てみよう。

 

技術に関する創作を面白くするためにはなんらかの障壁が必要だ。よって「科学」も魔法も、なんらかの不可能性を必要としている。ではその不可能性は、それぞれどういう点に根差しているか。

 

「科学」の不可能性は簡単だ。現実世界の科学にはたくさんの不可能が知られていて、たとえば物質の速度は光速を超えられなかったり、ある種の物質は血液脳関門を超えて移動できなかったりする。創作の中の「科学」は、現実で知られる不可能性のどれかを破ろうと試みることはあるにせよ、やはりなんらかの不可能に直面する。つまるところ科学や「科学」は、ひとつひとつは取るに足らない技術の大量を積み重ねてできた体系であって、それらが持っている制約たちのすべての制限を受けるわけだ。

 

魔法の不可能性は、「科学」よりも分かりにくい。「科学」が微小な技術の積み重ねであるのとは違って、魔法はひとつひとつの技術パッケージが大きい傾向にあるからだ。現実世界で物体を浮遊させるのには翼やエンジンやその他いろいろな技術が必要になるが、魔法はそんな回りくどいことをしない。ただ「浮遊せよ」と唱えれば、すべてのものは浮遊するわけだ。そこに明確な制約はなく、魔法使いの力量によっては、きっと地球すらも動かしてしまえるだろう。現時点でそんな魔法使いが知られていなかったとしても、実際に地球を動かせるひとがいるかもしれないということを否定する論理を、魔法はまったく持ちえない。

 

ではどうするかといえば、魔法は法律を使う。魔法に必要な「気」の大きさを使う。地球を動かすことを禁止する、より上位の魔法を使う。技術的に可能なことが必ずしも実現されるとは限らないような、小規模で後進的な社会構造を使う。進歩を冒涜とみなす、共同体の掟を使う。そうやってあらゆる手段で、不可能のない技術たちを有機的に組合わせて無尽蔵ななにかを実現することを禁ずる。

 

まとめれば、「科学」の不可能性は「科学」それ自身にあるのに対し、魔法の不可能性は魔法を取り巻く世界の構造に依存しているわけだ。そして科学と魔法が相容れないという約束によって、その垣根が絶対に取り払われないという誓約によって……世界はまだ、世界の形を保っていられるというわけだ。