遊びの新規性

たとえばきみが来週末、野球を見に行くのを楽しみにしていたとしよう。ルールにも選手にもきみはそれなりに詳しくて、贔屓のチームもあって、つまりは野球ファンと言えるくらいにはきみはよく注意してみている。きみは熱狂的とまでは言えないかもしれないけれど熱心なファンで、シーズン中は毎日、その日の試合結果を欠かさず確認している。年に数回は球場に赴いて、ビールを片手にメガホンを叩いている。

 

その楽しみという気持ちは、きっと経験そのものに向けられる期待だ。試合は面白いかもしれないし、お世辞にもそうとは言えないかもしれない。手に汗握る接戦にきみは熱中するかもしれないし、逆に序盤に大差がついて、あとは気楽に眺めているだけかもしれない。贔屓のチームは勝つかもしれないし、負けるかもしれない。でもいずれにせよ、きみはそれなりに楽しめると思って球場に行くわけだ。

 

球場で応援する経験はきみにとって、特別であり同時に特別ではない。シーズンシートを契約して毎日球場に行っているファンとは違って、きみにとって球場の空気は非日常だ。だからきみはいますぐに球場へと向かうのではなく、来週末を楽しみに待っている。けれど野球とはけっこういつでもやっているものだし、きみは実際、年に何回かの頻度で球場に通う。その意味で、きみにとって野球観戦は特別な経験ではない。一世一代の経験ではないわけだ。

 

特別だけれど、特別ではない。遊びというものにはそういう性質があるように、わたしは思う。遊ぶこと自体はなんら新しいことではなく、けれど変わらず楽しくて、そのためにわざわざ行動するだけの価値がある。結果として面白くなくても、それはそれで仕方がない。次、面白いことを願うだけだ。

 

遊ぶ習慣が身についたひとたちは、そんなささやかな非日常を日常的にこなしている。彼らは生活の一環として遊び、日々の遊びに特別ななにかを見出さない。彼らはこれといったことのないその日を全力で楽しみ、そして楽しむことは彼らの日常の一部だ。

 

けれど、わたしにとってはそうではない。予定を決めて遊ぶこととはわたしには完全な非日常で、すべて一期一会の重大イベントなのだ。わたしは遊びに完璧な経験を求める。ときには、新しい学びすら求める。それが残念なのことなのかそうでないのかはさておき、遊ぶ習慣がないとはそういうことなのだ。

 

わたしはどうやら、ひとつの遊びを繰り返すことができないようだ。何事も初めては貴重な経験だ、だが二回目となると途端に価値が落ちる。だから、ひとつのことは一度やれば満足してしまう。たとえ初回が楽しかったとしても。二度目も同様に楽しいだろうと予測できたとしても。それでも、日常である二度目に新しさはない。

 

好意的な言い方をすれば、それは向上心と呼べるかもしれない。常に新しい経験をわたしは求めているからだ。だが悪く言えば、そしてより実態を反映した呼び方をすれば……わたしは、遊ぶのが苦手だ。遊びに遊び以外のものを求めてしまうから。

 

とはいえ、苦手なものは仕方がない。わたしはこれからも、大して遊ばない人生を送るのだろう。それはそれで、まあいい。遊び以外にも、いい経験はあるのだ。