「オタク」からの脱却

片方はもう死語かもしれないが、わたしが多感な時期を過ごした社会は「ウェイ」と「オタク」の対立の中にあった。「ウェイ」というのは恋人がいたり、友達とカラオケに行ったり、親に連れられて以外の理由で服屋に行くことがあったり、とにかくそういう連中のことだ。各々の「ウェイ」がそれらすべての性質を兼ね備えているかと言えばおそらくそうではないだろうが、ひとつも満たさないこともまたないだろう。反面「オタク」とは、特定のなにかに並々ならぬ熱意を注いでいるロマンチスト……などということは特になく、単に「ウェイ」的なものが嫌いで、「ウェイ」の一挙手一投足を逐一非難することで負の連帯を保っている奴らのことだ。

 

それから十年、「ウェイ」は「パリピ」と名前を変えたが、その手の構図それ自体はまだ残っているのかもしれない。わたしは「ウェイ」ではなかったから「オタク」の肩を持ち続け、だが負け犬でいたいわけではなかったから、「ウェイ」的なことを憎むのではなく単に興味がないというふうにし続けた。「オタク」の負の連帯的な部分が顔を出さない限りにおいてその人間関係は心地よかったし(「ウェイ」的な束縛のいかに面倒に見えることか!)、たまに誰かが憎しみを表に出したときには、ただ言わせるがままにしてしばらく場を離れた。

 

最初のうちわたしはオタクと「オタク」の違い――すなわちなにかを激しく好むこととなにかを激しく憎むことの違いだ――を認識していなかった。「オタク」が「ウェイ」のアンチパターンに過ぎないことを理解していなかった。「オタク」仲間の「ウェイ」的行動を洗い出す秘密警察の活動(「あの裏切り者には彼女がいるらしい」)がけっして不毛なものではなく、「オタク」としてのアイデンティティの維持に必要不可欠な相互監視であることに、決して気づいていなかった。だがそういうことがわかってくると、自分がなんらかのマニアではないにも関わらず自称「オタク」の交わりに顔を出していることに関して、わたしは特に引け目を感じなくなった。そうこうしているうちに、まわりは「オタク」だけになった。

 

いまや、わたしのまわりに「パリピ」はいない。すくなくとも対立を煽るのに値する奴らは。だが彼らは存在しなくなったのではなく、たんに関わりがなくなっただけだ。憎しみは死ぬまで持続するという。憎しみによる紐帯はほかのなによりも強固だという。だがわたしが「ウェイ」に感じていたのは憎しみではなく忌避感だったから、時間はわたしに、「オタク」への帰属意識の大部分を忘れさせてしまった。

 

こうしてわたしは、「オタク」ではなくなったわけだ。