人生イージーモード

人生をゲームに喩えるならば、わたしのはまあイージーモードだろう。生まれた家庭は中流を自称していて、中流とは中央値を意味しないというあまり知られていない社会的基準に基づけば、我が家の自己評価はおそらく客観的に正しい。わたしは同じ家で育ち、家庭は円満で、たまに起こっていた言い争いが仲の良さをいっそう裏付けている。私立の小学校から都内の中高一貫校に進み、退学も休学も留年も浪人もすることなく、博士課程二年の現在に至る。実績と呼べるいくらかのものも持っていて、それはおそらく、わたしの履歴書にパンチを加えるのに少なからず役立っている。身体は健康で、ここのところ運動不足だが、べつに障害があるわけでもない。いじめを受けた経験はないか、あっても気づいていないかのどちらかで、青年期に誰しもが抱く漠然とした悩みを除けば、具体的な苦悩もない。

 

もしも人生が比喩ではなくほんとうにゲームなのであれば、わたしというゲームはきっと、つまらないだろう。とかくイージーモードとは難易度といっしょに真の楽しさまでをも削り去ってしまったモードのことだから、楽しみたいのであればこんなチュートリアルじみた作業はやめて、はやく本当の人生をプレイするべきだ。ゲームには乗り越えるべき試練が必要で、それは一度ではクリアできないほどのものでなければならず、ときにはそのためにレベル上げをしなければならない。自然に進めていたらボスがワンパンだった、なんていうゲームは、間違いなくどこかで重要な調整を間違えている。

 

わたしは比較的、ハードモードを遊びたがる人間だ。イージーのクリアはクリアではなく、ノーマルのクリアは最低限で、そのゲームを本気でやり切ったというためには、ハードでトロコンを狙わねばならない。難しすぎるという評判がなければハードモードを選ぶ。そこが二郎でなければ大盛を頼む。人生は難しいと聞きはするが、ほとんど全員がやっていけているようなゲームが、難しいわけのあるまい。

 

だからといってやり直せないのが人生というものだ。これはゲームと人生の異なる点であり、ゲームという比喩が適切ではない理由だ。イージーモードはつまらないが、ハードモードでやり直すことはできない。仮にやり直せたとしても、こんどは再びイージーに戻すことはできない。クリアできなさそうなら難易度を下げられるのはゲームの特徴であって、人生の特徴ではない。やり直したくてもやり直せないが、やり直したいかと言われてもべつに、はいと答えるわけでもない。ハードモードをクリアする嬉しさはだから、死ぬまで妄想の領域を出ることはない。

 

そういう意味でわたしは、偽りの人生を生きている。死後の世界なるものがあるとして、そこで人生の話題になれば、わたしは話についていけないだろう。「あのボス強かったよな」と誰かが言い、だがイージーモードの強すぎる剣のせいで、わたしはそいつを覚えていない。

 

そしてもう一周してこようにも、来世への道はわからないのだ。