一般的正義の肖像 ③

それでは、誰の正義にも抵触しない悪戯とはどのようなものだろうか。ここでは、すこし前に突然この世に現れ、そして世の中の話題と悪戯心とを一身に集めた、とあるウェブサイトのことを思い出してみよう。

 

そのサイトを訪れるとわたしたちはまず、横に並んだふたつの画像を見ることになる。ふたつの画像はともに縦長で、そしておそらく、かなりよく似ている。おそらく、と言った理由のひとつは、訪れた時期によって表示される画像の組は異なるからだ。だからもしあの日のわたしたちの姿を集団での熱狂と呼んでもいいとしても、その熱狂に紐づいているサイトの姿を、わたしたちは厳密な意味では共有していないのだ。

 

さて、明らかに個人経営と分かる背景のそのサイトで、わたしたちは画像のひとつを選ぶ。どちらを選ぶかはそれぞれの判断に任されているが、唯一、あいまいな方針らしきものが指定されている。それはわたしたちが、ふたつの画像の中で、より……、げほんげほん、しまった、なんでもない。

 

そう、より××なほうを……選ぶというものだ。

 

何のことを指しているかは、みなもうお分かりだろう。サイトの背後にはひとつのアルゴリズムが控えていて、わたしたちの個々の選択を通して、××という観念を学習しようとしている。ひとつひとつのクリックの影響はわずかだが、積み重なれば次第に、アルゴリズムは本当に××な画像を生成するようになる……と、とても実るとは思えない期待が、サイトには書かれている。

 

果たして。大方の予想に反してこのサイトが大きな成果を挙げたことを、あなたはすでに知っているだろう。

 

さて。誰もに愛されたこの企画だが、それは果たして、一度でも一般的正義であっただろうか。

 

その答えがノーであることは、あえて論じるまでもないだろう。××という観念が正義の王道を走ることなど、絶対にありえないのだから。

 

例のウェブサイトは、明らかな悪ふざけであった。作者もそう公言しているし、わたしたちの誰もが、あれを悪ふざけだと思って楽しんでいた。そしてまったく、悪ふざけであることをやめる兆しはなかった――正義の入り込む余地も、また邪悪の入り込む余地も、あの空間にはまったくありえなかった。企画は成功したが、失敗へと導く悪意(もしくは善意)が仮に存在したところで、誰も意に介さなかっただろう。

 

どの正義にも矛盾しないという究極の正義でありながら、まったく正義の臭いのしない場所。吹けば壊れてしまうように見えるのに誰も壊そうとしない、脆弱さゆえに頑強な世界。完璧に洗練されたアナーキー。だからこそ、あの企みは成功した。決してまとまることはないはずの全員が、一緒になってあのサイトを愛した。万人のための聖地というものがあるなら、それは間違いなく、あのサイトのことに決まっている。

 

そこでこんな問いが成立する。そうした完璧な正義が存在するなら、息苦しささえも与えぬ正義が存在するのなら、従来の正義の定義は書き改められるべきではなかろうか?

 

だが残念ながら、そうはならないだろう。そう、わたしは予想している。

 

なぜならば。

 

ああいう正義は、ああいう悪戯は、類稀なるセンスによってしか成立しえない。常に存在する立場でもなければ、存在できる立場でもない。万人を引き留める特異点、そんな奇跡の存在。わたしたちの目指すべき姿としてそんなものを提示するのは、なんというかその……あまりに酷だ。

 

だから。そういう理想の正義は胸に秘めておいて、たまの心の支えにでもしておくのがよいのだろう。そして普段は――理想よりも秩序が重要な時期には――これまでどおり、息苦しい方の正義を重んじておくのが良いのだろう。